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実篤の活動
文学活動
実篤は明治41年『荒野』を出版して以来60年余、小説のほか戯曲・詩・随筆など6300篇を上まわる作品を精力的に執筆しました。
明治43年創刊された雑誌『白樺』の中心的な存在として「おめでたき人」「その妹」「友情」などの代表作を次々と発表し、また、大正7年には“新しき村”を創設して村の活動に情熱を注ぎました。
昭和に入ると「井原西鶴」をはじめとした伝記文学や「人生論」「愛と死」を生み出し、20年以降は「真理先生」「馬鹿一」などの<山谷もの>シリーズを精力的に書きました。また、仙川の家では、自伝小説「一人の男」、人生の美しさや人間愛を語る実篤作品の集大成を書き上げました。
生命賛美の書画
実篤は若い頃から美術への関心が深く、『白樺』をはじめ数々の雑誌に作品紹介や美術論を執筆し、美術に関する著作が数多くあります。 独特の画風で多くの人々に親しまれている実篤が、自ら絵筆をとるようになるのは40歳頃からのことでした。 「生命が内に充実するものは美なり」と語る実篤は、一筆一筆心を込めてその美しさを表現することに画家としての喜びを感じていました。
新しき村
実篤は大正7年、彼の理想に共鳴する十数名の同志らと共に、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城の荒れた土地に、労働にいそしみつつ、自己を磨き、お互いを生かしあうための共同生活の場「新しき村」を建設します。

その後、ダム建設のために農地の大切な部分を失ったこともあり、埼玉県毛呂山町に主力が移りました。そして今日も営々と活動を続けています。
実篤にとって「新しき村」の活動は、生涯をかけ、精魂こめた仕事であり、未来への熱い希望でした。
美術遍歴
古今東西の美術作品に接することを実篤は無類の楽しみとしていました。
愛蔵の美術品は多種多様で、特に好んだ伝梁楷「松下琴客図」をはじめ、良寛
の書、ルオーの版画や親交のあった人々の作品のほか、実篤が描く画のモチー
フとなった陶磁器や彫刻などがあります。
いずれも実篤の心にふれ、心の糧として求めてきたもの
ばかりで、どの部屋にも無造作に置かれていましたが、
むしろこれらと親しみ雑居する生活を楽しんでいました。


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