調布市武者小路実篤記念館

サイトマップ個人情報の取扱

  • 文字の大きさ
  • 小
  • 中
  • 大

トップページ > 資料室 > コラム泉

コラム泉

「コラム泉」は、実篤の思い出、実篤記念館の活動についてなど、
ゆかりの方々にご寄稿いただいたもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』22号 より2012年3月31日発行

仙川への道
武者小路 知行(調布市武者小路実篤記念館運営事業団 理事)

祖父・実篤が仙川の土地を購入したのが幾つの時だったの かははっきりとは覚えていないが、家が出来る前にはよく祖父に連れられて従兄弟たちと遊びに行った事は覚えています。

もちろん車で行ったこともありましたが、当時は帝都線(そのころは井の頭線の事をそう言っていたと思います)の井の頭公園駅から明大前で乗り換えて京王線で仙川駅まで行く事が多かったように思います。今でこそ吉祥寺は東京 の住みたい町第一位を争う町だそうですが、当時はまだまだ田舎で井の頭線も永福町より吉祥寺寄りは、電車の本数も少なく客の数も疎らでした。仙川駅からは畑の間を抜けて行ったものです。いつだったか仙川駅と仙川銀座?を久 しぶりに(ン十年ぶり)見たら、すっかり若者の町に変貌していてちょっとビックリしました。(今頃になってそんなに驚くなとつっこまれそうですが)。

祖父が仙川に越した頃からは吉祥寺から覚東(狛江市)行のバス(今は仙川行になっています)が通るようになって、乗り換えの必要もなく時間的にもかからなくなるのでこのバスを利用して桐朋学園まで行きました。

中学になった頃からは自転車で行くことが多くなりました。畑や雑木林の間を縫うように通いました。当時は家も当然車の数も少なかったので、ちょっと裏道を選べば自転車にとってはまず安全な道でした。我が家が中学の三年(私 の通っていた明星学園では九年生)の時小金井に越したのですが、当時は通学もどこへ行くにもまずは自転車だったので、小金井からも自転車で行ったのですが、このころから徐々に家も車の数も増えてきて多少注意が必要な道路事情になってきました。

この頃までは今記念館のある辺りは田畑が連なっていました。

大学は青山学院理工学部でしたので、一年次は渋谷キャンパス(今は相模原キャンパスの様ですが)からの帰りに電車で寄ることが多かったのです。その頃になると仙川も都内へのベッドタウンとなって、田畑や雑木林も徐々に住宅 に変わり、駅の周りにも色々な店が増えてきましたが、もちろん今の比ではなくやっとスーパーマーケットが出来たくらいです。

大学も二年からは廻沢キャンパス(千歳烏山と千歳船橋の中間)になったこともあり、車の免許も取ったので車で行くことが多くなりました。その後大学卒業後も仙川へはほとんど車で行くことになりました。今もそうですが、成城方面に向かう道は狭くバスも通ったのでかなり注意が必要な道になりました。

こうして振り返ってみると、仙川の町や周囲の変貌ぶりが思い出されますが、旧実篤邸とその庭は多少の変化は有るもののほぼ昔の姿を保っているので、ここへ来るたびに懐かしい気持ちになります。