調布市武者小路実篤記念館

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コラム泉

「コラム泉」は、実篤の思い出、実篤記念館の活動についてなど、
ゆかりの方々にご寄稿いただいたもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』23号 より2012年9月30日発行

「実篤さん」と「サネアツさん」
末永 明彦
(交響詩劇「わが町、せんがわ」〜サネアツさん〜作・演出)

清らかな水を求めて、武者小路実篤氏が仙川に移り住んだのが、昭和30年(1955年)とのこと。亡くなられた、昭和51年(1976年)までの20年を過ごされたと聞く。

これも昨年、調布市せんがわ劇場で上演された「わが町、せんがわ」〜ちいさな劇場の物語〜という作品の一連の取材の中で、初めて知った。

昭和34年7月に生まれた僕は、昭和53年(1978年)4月に仙川にある「桐朋学園短期大学部(女子部)芸術科演劇専攻(当時。現・桐朋芸術短期大学。)」に入学。

ちょうど、武者小路実篤氏の仙川時代と同時期に生きて、実篤氏とすれ違いに仙川で4年間学んだことになる。

当時、手にした「せんがわ21」という小冊子があった。この中に、仙川の人々や町の話題とともに、盛んに武者小路実篤氏のこと、実篤公園や記念館のことが取り上げられていた。

昭和の大きな転換点となる、昭和39年(1964年)の「東京オリンピック」、昭和45年(1970年)の「大阪万国博覧会」。

「東京オリンピック」は、日本の戦後が終ったことを告げ、「大阪万国博覧会」は、高度成長期の日本から世界へ向けて、来るべき21世紀が輝かしい未来社会であるとの強烈なメッセージを放っていた。

そしていま、携帯電話やインターネットの普及により、驚くべき情報化社会が出現し、居ながらにして世界の人々と交信し、 多くの情報を手にすることが出来る。

24時間営業している店が現れ、移動手段も格段に向上した。

しかし、現代社会において、人と人とのつながりが希薄になっていないだろうか。

昨年、冒頭の演劇作品の執筆中に、武者小路実篤氏との新たな出会いがあり、今年の作品のテーマとして、実篤氏を柱の一つにおいた。

実篤氏の「新しき村」の精神には、おおいに共感するところがあり、そのときに「来年の市民参加演劇の題名は決まった!」と、一人ひそかに心の中で喝采をあげていた。題名は、「わが町、せんがわ」〜サネアツさん〜。(注:台本中のサネアツさんは、実篤氏とは別人物。作品中に武者小路実篤氏は登場しません)

一人の人を、どこまでも大切にする。一人一人の個性を尊重して、おのおのが才能をいかんなく発揮出来る社会。そんな「理想郷」を目指していた、実篤氏。

私が演劇という仕事を選んだのも、演劇という作業の中で学んだ、「一人が欠けても本番は出来ない」という「一人の人間の大切さ」を知って欲しいから。

「まず、自分が幸せになること、それから、ほかのすべての人が幸せになること」の喜びを知って欲しいから。

実篤記念館の皆さんの多大なるご協力を得て、いよいよ、この10月に「わが町、せんがわ」〜サネアツさん〜 の幕が開く!

果たして実篤氏は、微笑んでくれるだろうか。

(調布市せんがわ劇場演劇・市民参加・フェスティバルコーディネーター)