調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』19号 より2010年9月30日発行

所蔵資料から
『白樺』創刊に関する手紙
武者小路実篤より志賀直哉あての葉書
●明治43年1月22日(小学館版全集書簡番号117)
●同年 4月6日(小学館版全集書簡番号121)

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『白樺』は、学習院の同窓生による三つの回覧同人誌が集まって創刊した雑誌です。武者小路実篤は志賀直哉、木下利玄(としはる)(号としての読み「りげん」)、正親町公和(おおぎまちきんかず)と明治41年7月から〈望野〉(当初〈暴矢〉を改題)を発行、これに触発されて、二学年後輩に当たる里見弴(とん)、児島喜久雄、正親町実慶(さねよし)(筆名:日下諗(しん))、園池公致(きんゆき)、田中治之助(筆名:雨村)らが11月から〈麦〉を、三学年下の柳宗悦(むねよし)、郡虎彦(こおりとらひこ)(別称:萱野二十一)が翌年2月から〈桃園〉を次々と始めます。

三誌は互いに回覧し批評し合い、そうした中から、まもなく雑誌刊行の計画が持ち上がります。そして資金と作品をためるために、一年間の準備期間をおくこととしました。

いよいよ創刊が近づき、誌名を決めたのが、この1月22日の手紙です。

「雑誌の名のこと、即ち今月中に他にいゝ名がなかったら白樺にしやうと思ふがどうかと云ふことを柳や郡に君から聞いてくれないか。それからいゝ名があったらなるべく早く云つてほしいと云ふことを」

"白樺"は実篤たちが〈望野〉の後に、明治42年9月から発行していた回覧同人誌の誌名でした。

実篤の回想によると、一旦は違う誌名になる予定だったのですが、正親町が『白樺』でなければ、と主張して最終的に決まったと言います。

日付の下の三行は正親町の筆跡で、実篤の回想との関連が感じられます。

この三行には「昨晩ハ失礼した、今日綴じた雑誌も前号より大分あついよ。僕のが五十六枚からあるのださうだ、」と書かれており、この時も回覧同人誌が続いていることが解ります。

そして、明治43年4月『白樺』は創刊されました。

同人達の意気込みにも関わらず、当初『白樺』はあまり注目されませんでした。批評にもあまり取り上げられず、取り上げられても、同人が学習院出身ということで上流子弟の趣味と見られたり、「逆さに読んでバカラシ」などと揶揄される有様です。

そんななかで、いち早く白樺同人の可能性を認めたのが。夏目漱石でした。

白樺同人は、文壇に先輩を持たないと宣言していましたが、漱石には格別の尊敬を寄せていました。3月末に創刊号が刷り上がるとすぐに漱石に贈り、それに対して漱石は3月30日付で、巻頭の評論「『それから』に就て」への礼状を実篤に送っています。

そしてすぐに森田草平を通して実篤へ、自らが主宰する朝日新聞文芸欄への寄稿を依頼しました。

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4月6日付けの手紙には「今日『代助と良平』と云ふ題で一寸したものを書いて夏目さんに送つた」とあり、実篤も即座に応えたことが解ります。「見えすかないつまらぬものか知れないが見えすいたものではない心算」と書いたところに控えめながら自信が窺われます。「代助と良平」は12日付けの朝日新聞文芸欄に掲載されました。

手紙からは、詳細な日時などの情報が確認出来るだけでなく、その時の書き手の気持ちも読み取る事が出来ます。

余談ですが、手紙後半の「彗星の尾の地球をつゝむのは五月十九日だつた。地球との距りが千二百万哩」と書かれているのは、ハレー彗星です。この年は76年に一度の大接近の年で、大きな話題になっていたのです。

(伊藤陽子 当事業団主任学生員)