調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』23号 より2012年9月30日発行

岸田劉生より木村荘八あての手紙
─実篤と劉生の出会い─
明治44年12月30日

昨日ロダンを見ました。
強いと思って居た自分の弱さを心から
嘆き悶へて居た自分ハほとんど自信を
失ふて失望し切った自分は生け
るロダンに接して力を得ました。
私の知ってる日本人の中で一番したわ
しい私の友武者小路君は、私の
為に私に倒れても倒れても立ちあ
がれ、といって呉れました。そうして
ロダンを見ろと言ひました。
翌朝私は武者君と一所にロダン
を見ました。それは昨日です。
今迄可なり澤山の彫像を見
ました。
しかしどの彫像から私が力に壓さ
れましたろう。
どの彫像が私の心の奥迄歩いて
入って来たでせう。
あゝ、私は言を知らない。
不可思議な力の藝術それは
ロダンの彫像で知りました。
マダムロダンの顔と一人の男のはだか
の全身と「ごろつき」の顔と、
皆小なものでした。
こう少しうつむいたマダムロダンの顔
をじっと見つめて居ると、もうそれは
銅で作った人の首の形ぢゃありません。
だんだんと心の奥に壓し込んで来る力
がある。頬のあたりから、目から口から
人の首をあらはしたといふ偉大な藝
術の力がしづかに冷たく壓し込ん
で来る。見て居れば見て居る程。
今夜私は疲れて居る。
もう書くのがつらくなりました。
もっともっとロダンの力は強いものでせう。
私は今自信が湧きつゝあります。
私はきっと、強くなり得る。なり得
ないならバ生甲斐がない。
おもむろに、しかも熱烈に、道を
たどるより仕方ない。
自分の望は分に過ぎてるかも知
れない。
しかし分に過ぎた望を持ち得
てそれに努力し得る自分は幸
であり、又有望である。(自分自身が
自分自身を見て)
自分はしっかりと自分の自然を攫みたい
先づ自分を作らねバならぬ。
自分の眼のうつバりを取って自然
を見たい。
そこに自分の創作ハ價値を
持って生れる。
ロダンが居るゴーホが居る。
自分達はつとめなけれバならぬ。
いと真面目に
それではこれで 失禮
  十二月三十日    劉生
 荘八兄


「切通之写生」(重文)や一連の「麗子像」で知られる日本近代洋画を代表する画家・岸田劉生が、武者小路実篤の〈自己を生かす〉強い姿勢に感化されて画家としての自分のあり方を決意し、この出会いを「第二の誕生」と呼んだことはよく知られています。

劉生は、友人・清宮彬と柳宗悦の家に西洋絵画の複製を見に行ったときに実篤と顔を合わせ、間もなく長い手紙を出して会いたいと書くと、来てくれという返事が届き、すぐに実篤を訪ねます。初めて二人で会ってたちまち意気投合し、届いたばかりのロダンから贈られた彫刻を白樺同人・田中雨村の家へ一緒に見に行きました。(岸田劉生「思い出及び今度の展覧会に際して」/武者小路実篤「岸田劉生」)。

これが明治44(1911)年12月末だということはわかっていましたが、これまで具体的に日付を特定出来る資料や記録が見つかっていませんでした。

この手紙が発見されて初めて、ロダン彫刻を見に行ったのが手紙の前日の29日、実篤を初めて訪ねたのがその前日の28日であったことがわかったのです。

あて先の木村荘八もこのときはまだ画学生で、劉生とも知り合ったばかり。この後ヒュウザン会、次いで草土社の結成に参加して行くことになります。

ともに画家として歩み始めたばかりの二人が交わした手紙は、芸術を志す若者のナイーブな内面と高揚に溢れ、同時に劉生にとって実篤がどのような存在であったかを伝えます。

このとき劉生20歳、実篤26歳。邂逅から100年を経て、手紙からはその若き日の姿が浮かび上ってくるようです。

(伊藤陽子・当館主任学芸員)