武者小路実篤 詳細年譜 1885年(明治18年) 5月12日 東京市麹町区元園町1-38(現東京都千代田区一番町19-4)に生まれる。父、子爵武者小路実世(さねよ)33歳、母、秋子(なるこ)、(勘解由小路(かでのこうじ)家)31歳の8番目の末子。兄姉のうち5人は早く死に、5歳の伊嘉子(いかこ)、2歳の公共(きんとも)がいた。武者小路家は藤原北家閑院流右大臣三条西実条(さねえだ)の二男公種(きんたね)(1631〜92)を祖とし、最初の住所によって武者小路を姓とした。家禄130石。代々和歌の家であり、2代実影は、和歌で霊元天皇に重んぜられ、破格の従一位、准大臣を授けられた。明治以後は華族となり、実世は子爵を授けられた。実世は明治4年(1871)岩倉具視の遣欧使節団の一行に加わり、3年間ベルリンに留まって法律を学ぶ。 1887年(明治20年)2歳 10月 父死去。父は死を前に「この子をよく育ててくれる人があったら、世界に一人という人間になるのだが」と言ったという。父を覚えていない実篤に、この言葉は強い影響を与えた。 1890年(明治23年)5歳 半蔵門近くの幼稚園に通う。病弱で神経質なため、母は教育に苦心する。4歳から9歳のころまで、毎年夏、鎌倉海岸に行く。 1891年(明治24年)6歳 学習院初等科入学。成績は中の上だったが、兄が首席だったため、母から比較されることが多かった。朗読と数学が良く、音楽、習字、図画、作文が苦手。木下利玄と同級。 1895年(明治28年)10歳 三浦半島金田に移住した伯父勘解由小路資承(すけこと)のもとに、夏に毎年訪れる。 1897年(明治30年)12歳 学習院初等科卒業、中等科入学。武課と体操が嫌いだった。 1899年(明治32年)14歳 12月 姉伊嘉子死去。前年結婚(平田氏)したが、結核となり、実家で療養していた。享年20歳。後年、小説「姉」がある。 1900年(明治33年)15歳 小説「初恋」(「第二の母」改題)の「お貞さん」(志茂テイ)が、敷地内の別棟に住む遠縁の「おば」のもとから女学校に通うようになる。 1902年(明治35年)17歳 9月 中等科6年。志賀直哉が同級となり、下級との対立事件を通して親しくなる。 1903年(明治36年)18歳 3月 お貞さんが卒業して帰郷。うちあけぬままの失恋が文学に傾斜させる。5月邦語部(弁論部)で初めての演説。以後、直哉とともにさかんに活動。9月 高等科に進む。兄公共は高等科を首席で卒業し、東京帝国大学法科に入学。11月「輔仁会(校友会)雑誌」に「所感録」を発表。この頃から、トルストイ(ドイツ語訳)、聖書、仏典をしきりに読み、とくにトルストイに強くひかれる。 1906年(明治39年)21歳 4月 志賀直哉と富士五湖から赤城山まで徒歩旅行。7月 学習院高等科3年を卒業、成績がビリから4番だった。9月 東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。大学の授業にあきたらず、小説・詩・対話・戯曲・感想など、形式にこだわらず創作をこころみる。この頃、メーテルリンク「智慧と運命」(ドイツ語訳)を読んだことや、ドイツの理想派の画家クリンゲル等の影響を受け、トルストイの禁欲的傾向から自己の解放を図る。 1907年(明治40年)22歳 4月14日 志賀直哉・正親町公和・木下利玄と十四日会をつくり、毎月創作を批評しあう。また、輸入の美術雑誌・複製画や展覧会をともに見て、美術への関心も深める。8月 外務省に勤めた兄公共と相談、その励ましを受けて、大学を中退。10月 十四日会で雑誌発行を計画するが、この時は実現せず。 1908年(明治41年)23歳 4月 『荒野』初めての出版。(後年未熟として再版しなかった)6月 東北帝国大学農科大学(旧札幌農学校)に赴任していた有島武郎を訪問、翌月帰京。7月 十四日会で回覧雑誌〈暴矢〉(後に〈望野〉と改める)を始める。9月 兄の長女芳子、生後7カ月で死去。小説「芳子」を書く。この頃、ドイツの複製画を丸善でしばしば購入、西洋絵画の絵葉書を模写をする。 1909年(明治42年)24歳 4月 学習院2年下の里見トン・園池公致・児島喜久雄等の回覧雑誌〈麦〉、3年下の柳宗悦・郡虎彦等の回覧雑誌〈桃園〉と〈望野〉を統合して新しい雑誌を企画。1年間の準備期間を置く。10月 上野桜木町のバーナード・リーチを直哉と訪れ、エッチングの講義を聴く。 1910年(明治43年)25歳 4月 雑誌〈白樺〉創刊。有島武郎、壬生馬(のち生馬)兄弟、少し遅れて長与善郎も参加。巻頭に「『それから』に就て」をのせ、夏目漱石から好意ある葉書をもらい、東京朝日新聞に執筆を依頼される。7月 「白樺社主催南薫造・有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会」開催。11月 〈白樺〉「ロダン号」のために有島壬生馬を通してロダンと文通。 1911 明治44年)26歳 5月札幌に有島武郎を訪ね、1か月滞在。「お貞さん」を小樽の婚家先に訪問。10月 「白樺主催泰西版画展覧会」ビアズレー、ムンク等を紹介。11月 木下杢太郎「山脇信徳君に答ふ」に対し、〈白樺〉に「自己の為の芸術」を発表。〈スバル〉同人との間に「絵画の約束」論争を展開。「白樺主催洋画展覧会」坂本繁二郎・津田青楓・中村彝・藤島武二・山脇信徳等出品「文展落選作品もある」と広告にうたう。12月 〈白樺〉同人が浮世絵を送ったのに対して、ロダンよりブロンズ3点が贈られる。この3点はロダンの作品として初めて日本に入る。岸田劉生が訪問、交友が始まる。 1912年(明治45年大正元年)27歳 2月 「白樺主催第4回美術展覧会」開催。ロダンの《ゴロツキの首》など初公開。4月 「白樺主催第5回美術展覧会」を京都で開催。 1913年(大正2年)28歳 2月 竹尾房子と結婚。4月 「白樺主催第6回美術展覧会」セザンヌ、ゴッホの複製などを展示。10月 「白樺社主催梅原良三郎(龍三郎)油絵展覧会」開催。 1914年(大正3年)29歳 2月 「白樺同人所蔵泰西美術(版画・複製)展覧会」を長野県上諏訪教育委員会主催、諏訪高等女学校で開催。5月 生家を出て、麹町区下二番町に家を借りる。 1915年(大正4年)30歳 1月 神奈川県鵠沼に転居。2月 「白樺主催第7回美術展覧会」ブレイクの彩色版画など。翌月京都でも展示。6月 戯曲の最初の上演「わしも知らない」(文芸座、守田勘弥・市川猿之助)11月 「岸田劉生画会」の発起人になる。「二つの心」上演(新富座、喜多村緑郎・川上貞奴)。 1916年(大正5年)31歳 2月 小石川区小日向台町に転居。12月 千葉県我孫子町字根戸に家を建てて転居。我孫子には志賀直哉や柳宗悦が以前から住み、バーナード・リーチものちに移住。この年は〈白樺〉衛星誌がさかんに発行される。 1917年(大正6年)32歳 3月 「その妹」上演(舞台協会、監督山本有三)。5月 「悪夢」上演(牛込芸術倶楽部)。10月 〈白樺〉10月号に「美術館をつくる計画に就て(並びに同志の人の寄付をつのる)」を発表。日本最初の西洋近代美術の美術館設立を提唱。 1918年(大正7年)33歳 3月 白樺美術館の基金をつくるために、白樺同人の合著『白樺の森』刊行。6月 「白樺主催第8回美術展覧会」ギリシア、ルネサンス、近代美術の複製展示。7月 「ある国」(のち「新しき村に就ての対話」)を大阪毎日新聞に発表。月刊〈新しき村〉を創刊。8月 新しき村本部を東京につくる。9月 我孫子を出発、東京・浜松・松本・京都・大阪・神戸・福岡で新しき村の演説会。11月 宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に「新しき村」(2.5ha)を建設。三方を川に囲まれた山村。最初の住人は子供2人をふくむ18人。 1919年(大正8年)34歳 新しき村で、家作りのための材木運びや麦まき等に従事。毎年2回ほど上京、「白樺」「新しき村」のための活動、身辺の用事を果すとともに、各地に講演旅行をする。4月 〈白樺〉10周年。記念号を発行の他、「記念演説会」「岸田劉生個展」(この展覧会を武者小路兄に捧ぐ)「記念音楽会(柳兼子等)」を開催。7月 周作人(魯迅の弟)訪村。11月 「白樺主催ウイリアム・ブレイク複製版画展覧会」を開催。 1920年(大正9年)35歳 3月 「二十八歳の耶蘇」上演(帝国劇場)。東京市外長崎村(現豊島区)に「新しき村」印刷所・曠野社創設(〜大正15年)。志賀直哉訪村。4月 隣村川南村に「第二の新しき村」をつくる。 1921年(大正10年)36年 1月 「新しき村」最初の住居を兼ねた集会所焼失。すぐ復興にかかる。3月 「白樺美術館第1回展覧会」。ゴッホ《向日葵》(美術館のため山本顧弥太が購入、戦災で焼失)、セザンヌ《帽子をかぶった自画像》(細川護立購入、現在ブリヂストン美術館)《風景》(共同購入、現在大原美術館寄託)が日本で初公開。4月 〈生長する星の群〉創刊(〜大正13年) 1922年(大正11年)37歳 2月 「一日の素盞鳴尊」上演(帝国劇場)、有島武郎・志賀直哉編『現在三十三人集』(新潮社刊行)、村の水路のために印税寄付。6月 「張男の最後の日」上演(有楽座)。9月 長与義郎訪村。10月 「新しき村のための会」(講演・演劇)で「神と男と女」「天国に旅する学生(ハンス・ザックス)」を上演。中川一政・犬養健・倉田百三・実篤・房子等出演、河野通勢装置。ついで京都でも上演。房子と離婚、前年入村した飯河安子と結婚。 1923年(大正12年)38歳 6月 有島武郎自殺。9月 関東大震災、母は無事だったが生家は焼失。〈白樺〉9月号未刊のまま廃刊。12月 長女、新子出生。この頃から、絵(鉛筆素描、墨画淡彩)に熱心になる。 1924年(大正13年)39歳 1月 〈新しき村〉〈生長する星の群〉合併〈人間生活〉発行(〜11月)。2月 「桃源にて」上演(麻布南座)。4月 志賀・長与・倉田らと雑誌〈不二〉創刊(〜大正15年7月)。5月 「だるま」上演(市村座)。11月 〈新しき村通信〉を村から創刊(〜昭和14年3月165号)。 1925年(大正14年)40歳 2月 木下利玄死去。次女、妙子出生。3月「人間万歳」上演(帝国劇場)。6月 叔父勘解由小路資承死去。7月 村に印刷所を作る。ドイツのレクラム文庫にならって、日本最初の文庫本「村の本」刊行。第1冊は自選の『詩百篇』(9月発行)。12月 離村し村外会員となり、志賀直哉の在住していた奈良に移る。 1926年(大正15年昭和元年)41歳 1月 奈良市水門町に転居。昭和14年埼玉県に「東の新しき村」を創るまで、毎年2度は訪村、執筆活動でひきつづき村の財政を支える。2月 秋田雨雀主催のトランク劇場先駆座が、共同印刷争議の救援に「ある日の一休」(佐々木孝丸ら)を上演。4月 〈ひ・新しき村〉を新しき村から創刊(〜昭和4年8月)。7月 「愛慾」上演(築地小劇場、土方与志演出、山本安英・友田恭助主演)。12月 和歌山市外和歌浦町1の1に転居。同市西正寺に姉伊嘉子の墓がある。「生命の王」上演(築地小劇場、山本安英他) 1927年(昭和2年)42歳 2月 東京府南葛飾郡小岩村(現葛飾区)に転居。4月 実篤主宰編集〈大調和〉創刊(〜3年10月)。志賀直哉・園池公致・柳宗悦等白樺同人の他、高村光太郎・倉田百三・千家元麿・生田春月・高畠素之・菊池寛・野上弥生子・平塚雷鳥・高野辰之・室生犀星・荻原井泉水等が執筆。西巣鴨に「新しき村」東京支部を設立、第1回「木曜会」を開く。(同会は大戦末期の約半年間を除き、今日まで継続)。6月 第1回「新しき村展覧会」を新宿・紀伊国屋で開催。9月 「最初にかいた油絵」と記す《南瓜》。以後、油絵もさかんに描くようになる。10月 牛込区左内町(現新宿区)に転居。11月 第1回「大調和展覧会」開催。 1928年(昭和3年)43歳 1月 麹町区下二番町に転居。2月 有楽町に「新しき村の会場」を作り、毎月のように展覧会(北斎・南画・夏目漱石等)、講演会、室内劇、毎週座談会を開く。月刊〈第三の者〉他を刊行。11月 母、秋子死去。三女、辰子誕生。個人雑誌〈獨立人〉を創刊(〜5年3月)。 1929年(昭和4年)44歳 2月 最初の「個人絵画展」を日本橋・丸善で開催。4月 豊多摩郡落合町下落合1731(現豊島区)に転居。5月 「第4回国画会展覧会」に油絵3点入選、以後毎年出品。9月 「新しき村」満10年。佐藤春夫が発起人となり、文壇・画壇69氏の作品を集めた『十年』(改造社)を出版、その印税を村に寄付。11月 北多摩郡千歳村祖師ケ谷441(現世田谷区)に転居。12月 神田猿楽町に美術店「日向堂」を設立(〜6年)。岸田劉生死去。 1930年(昭和5年)45歳 2月 「新しき村」演劇部村野一座で「出鱈目」上演(帝国ホテル演芸場)。「日蓮」上演(東京劇場、市川左団次)。 1931年(昭和6年)46歳 1月 雑誌〈星雲〉を創刊(〜9月)。4月 「新しき村」演劇部第2回公演「ダマスカスへ」に出演。7月 北多摩郡砧村喜多見1353(現世田谷区)に転居。12月 「近代洋画展覧会」を麹町・室内社画堂で開催。 1932年(昭和7年)47歳 5月 「国画会」会友となる。11月 長与善郎と二人雑誌〈重光〉を創刊(〜9年10月) 1933年(昭和8年)48歳 1月 「愛慾」再演(築地座土方与志演出、友田恭助、田村秋子)。2月 「実朝と義時」上演(市川左団次一座)。3月 雑誌〈新しき村〉を復刊(以後継続して16年まで)。7月 新しき村演劇部第7回公演「詩人の夢想」に出演。11月 新しき村誕生15年を記念して、東京第1回「新しき村祭」を赤坂三会堂で開催。 1934年(昭和9年)49歳 1月 市外吉祥寺鶴山小路885へ転居。12月吉祥寺日向小路645に転居。 1935年(昭和10年)50歳 2月 「武者小路実篤小品展」を室内社画堂で開催。 1936年(昭和11年)51歳 4月27日 横浜より欧米旅行に出発。10月パリにてマチス、ルオー、ドラン、ピカソを訪問し、ピカソからエッチング《ミノトール》(現在東京都現代美術館蔵)を贈られる。アメリカを経て、浅間丸で12月帰国。 1937年(昭和12年)52歳 2月 「武者小路実篤渡欧近作小品展」を室内社画堂で開催(油絵・素描・色紙)。4月 「第13回国画会展覧会」出品、同人となる。6月 「武者小路実篤色紙展」を銀座・吾八で開催。芸術院会員となる。市外三鷹村牟礼359に転居。 1938年(昭和13年)53歳 1月 「武者小路実篤近作小品展」を吉祥寺・ナナンで開催。2月 「武者小路実篤日本画個人展覧会」を新宿・天城画廊で開催。5月 「武者小路実篤日本画小品展」を京都・丸物で開催。10月 「第2回武者小路実篤日本画展」を大阪・阪急で開催。宮崎県営の水力発電所建設のため、日向の新しき村の1haの耕地が水中に没することになり、東京近郊に新しき村建設の土地を探す。 1939年(昭和14年)54歳 3月 「武者小路実篤個展」を銀座・三昧堂で開催。9月 埼玉県入間郡毛呂山町、1.08haの丘陵地に、東の新しき村を創設。10月 「武者小路実篤近作展」を吉祥寺・ナナンで開催。12月 「武者小路実篤新作画展」を銀座・鳩居堂で開催。 1940年(昭和15年)55歳 3月 「愛と死」で菊池寛賞を受ける。5月 「武者小路実篤日本画展」を大阪・阪急で開催。12月 「幸福な家族」を松竹が映画化(原研吉監督、斎藤達男、東山千栄子、三浦光子等出演)。 1941年(昭和16年)56歳 1月 「七福神」上演(文学座)。5月 新しき村機関誌〈馬鈴薯〉を創刊。 1942年(昭和17年)57歳 5月 日本文学報国会劇文学部長に就任。8月 神田神保町に新しき村の事務所「新村堂」を開設。『画集と画論』出版記念「近作画展覧会」を京都朝日会館画廊で開催。10月 長女新子、木村龍蔵と結婚。11月 大東亜文学者大会が東京で開催され、講演。 1943年(昭和18年)58歳 2月 倉田百三死去。4月 中国・南京で開かれた中日文化協会大会日本側参加団に加わり渡航。周作人と再会。6月 「武者小路実篤日本画個展」を日本橋・白木屋で開催。10月 「三笑」上演(帝劇、滝沢修ら芸文座)。 1944年(昭和19年)59歳 3月 〈馬鈴薯〉終刊、戦時政策のため〈文芸日本〉へ強制合併。10月 「武者小路実篤個展」を銀座・鳩居堂で開催。 1945年(昭和20年)60歳 3月 三女辰子、武者小路穣と結婚。4月 家族と伊豆大仁を経て三条市へ疎開。5月 新しき村会員により東京の自宅で還暦の誕生会。6月 秋田県の稲住温泉に移る。8月 終戦を知った一日だけ原稿も画も書かなかった。9月帰京。12月 「武者小路実篤個展」銀座で開催。新しき村講演会、東京文化学院で開催(以後数年毎月各所で開催)。 1946年(昭和21年)61歳 3月 勅選議員に任命される。7月公職追放G項該当、勅選議員・芸術院会員を辞任。11月 「武者小路実篤旧新作日本画展」を日本橋・三越で開催。毎年春秋京都旅行。 1947年(昭和22年)62歳 1月 雑誌〈向日葵〉を創刊(〜昭和23年1月)。3月 新しき村五日市支部主催「武者小路実篤画展」を五日市町国民学校講堂で開催。5月 京都支部主催の個展を京都・高島屋で、東京支部主催第1回「新しき村美術展覧会」を都美術館で開催(毎年出品)。12月 「武者小路実篤個展」を銀座・シバタギャラリーで開催。この年長与善郎、志賀直哉、安部能成、和辻哲郎、小泉信三らと新しい雑誌発行を計画する。 1948年(昭和23年)63歳 3月 新しき村を財団法人とする。千家元麿死去。4月 次女妙子、安宅侃三郎と結婚(武者小路姓を名のる)。7月 雑誌〈心〉創刊、文壇・画壇43人の同人で生成会をつくる。11月 新しき村30周年を祝う会を神田共立講堂で開催。 1949年(昭和24年)64歳 4月 雑誌〈新しき村〉を復刊。9月 伊勢丹で個展。第1回「武者小路実篤油絵展」を日本橋・三越で開催。「東の村満十年を祝う会」(埼玉の新しき村・東の村にて)。12月 「武者小路実篤個展」を日本橋・壷中居で開催。(昭和50年まで毎年開催)。 1950年(昭和25年)65歳 6月 銀座・三越の「新しき村美術展」に出品。11月 倉敷の大原美術館が開館20周年を迎え、白樺の同人とともに訪問。さきに白樺美術館が購入したセザンヌの《風景》とロダンから贈られた彫刻3点を同館に寄託。倉敷で講演。 1951年(昭和26年)66歳 3月 「その妹」上演(三越劇場、劇団民芸、宇野重吉、滝沢修、小夜福子ら)。8月 公職追放解除。11月 文化勲章を授与される。三鷹市名誉市民の称号を贈られる。9月 「武者小路実篤日本画展」を上野・松坂屋で開催(昭和50年まで大阪・京都・名古屋などでも例年開催)。10月 「武者小路実篤日本画個展」を新宿・伊勢丹で開催。 1952年(昭和27年)67歳 2月 「ある日の素盞鳴尊」上演(三越劇場、俳優座こども劇場)。3月 中川孝の永年のコレクションを「実篤文庫」と命名した。新しき村会員からも多くの資料寄せられる。4月 芸術院会員に再選。「武者小路実篤個展」を大阪・藤川画廊で開催。9月 「私と読書」ラジオ東京で放送。「ブリヂストン美術館土曜講座」で「美術雑感」を講演。11月 「その妹」上演(慶応義塾)。 1953年(昭和28年)68歳 1月 「武者小路実篤・真垣武勝二人展」を大阪・大丸で開催。2月 「武者小路実篤近作画展」を大阪・高島屋で(9月京都・大丸でも)開催。5月 「武者小路実篤油画と扇面の展覧会」を数寄屋橋画廊で開催。6月 「その妹」松竹で映画化(佐田啓二、角梨枝子、上原謙、小夜福子ら出演)。7月 「武者小路実篤近作展」を京都・すいれんで開催。9月 「武者小路実篤小品展」を大阪・阪急で開催。11月 新しき村創立35周年祭を東の村で行う。「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」の詩柱建立。 1954年(昭和29年)69歳 4月 日本橋・三越の「第7回新しき村美術展」に出品。5月 文壇画壇35氏発起による古稀祝賀会を東京会館で開催。「武者小路実篤古稀祝寿個展」を銀座・東洋美術館および上野・松坂屋で同時開催。30日、NHKで「目出たし」放送。7月 宝塚雪組公演グランドレビュー「人間萬歳」上演(新珠三千代、八千草薫他)。10月 「愛と死」永井智雄他により、ラジオ東京で放送。京王線仙川の近くに池のある土地を買う(北多摩郡神代町入間468番地・現実篤公園)。11月 新しき村36周年祭(東の村15周年)挙行。東の村の名称を廃し「新しき村」と呼ぶことに決める。 1955年(昭和30年)70歳 1月 「一休と地獄大夫」ラジオ東京で放送。3月 「武者小路実篤十年間の作品個展」を日本橋・壺中居で開催。5月 「『心』80号記念生成会同人書画展」(日本橋・三越)に出品。6月 書き下ろしラジオドラマ「娘の天気予報」NHKで放送。9月 銀座・サエグサ画廊で個展。11月 「盲目と聾者」に杵屋六左衛門作曲の長唄「月夜」、芸術祭参加作演奏。12月 仙川の新居に転居(山口芳春設計) 1956年(昭和31年)71歳 1月 「武者小路実篤日本画展」を新宿・伊勢丹で開催(昭和33年まで毎年開催)。「武者小路実篤近作展」を京橋・中央公論社画廊で開催。NHKテレビで亀井勝一郎と「伝統の美」について対談。2月 ニッポン放送で「愛と死」放送。7月 NHKラジオで「絵と彫刻について」と書き下ろしのラジオドラマ「須佐之男の命と大国主の命」放送。 1957年(昭和32年)72歳 4月 花友会新作発表会で狂言「仏陀と孫悟空」上演。7月 書き下ろしのラジオドラマ「仕合わせな馬鹿」をNHKで放送。8月 「武者小路実篤個展」を銀座・弥生画廊で開催。12月 椿貞雄死去。 1958年(昭和33年)73歳 2月 「武者小路実篤色紙短冊展」を大阪・阪急で開催。5月 「武者小路実篤近作展」を銀座・文藝春秋画廊で開催。11月 「新しき村40周年記念祭」を九段会館で開催。新しき村,自活達成。 1959年(昭和34年)74歳 1月 NHKラジオ〈私の本棚〉で「真理先生」を12回にわたり放送。7月 「愛と死」を「世界を賭ける恋」の題名で日活で映画化(石原裕次郎、浅丘ルリ子ら出演)。11月 「武者小路実篤・岸田麗子師弟展」を渋谷・東横で開催。 1960年(昭和35年)75歳 1月 NHKテレビ「志賀直哉」に出演。NHKラジオで里見トン・吉井勇と「新春座談会」放送。5月 月刊〈新しき村〉を〈この道〉に改題。「誕生75年記念武者小路実篤油絵新作展」を銀座・日動画廊で開催。6月 「武者小路実篤小品展」を八重洲・大丸で開催。11月 「武者小路実篤小品展」を日本橋・高島屋で開催。梅原龍三郎、中川一政らを中心に、この道会を結成。「この道会記念展」日本橋・壺中居での開催収益を新しき村に寄付。 1961年(昭和36年)76歳 1月 NHK教育テレビで「だるま」を松本克平他の出演により放映。3月 「喜寿記念展」を日本橋・三越で開催。5月 文壇・画壇57氏の発起による喜寿祝賀会を椿山荘で開催、650名の参会者。9月 東京12チャンネルの座談会「劉生33回忌に因んで」に中川一政、岸田麗子と出席。NHKラジオ〈私の本棚〉で「お目出たき人」9回放送。11月 日本橋・壺中居の第2回「この道会展」に出品。12月 大阪・高島屋の「寅展」に出品。この年、柳宗悦、長与善郎死去。 1962年(昭和37年)77歳 1月 「武者小路実篤近作展」を八重洲・三笠画廊で開催。2月 「武者小路実篤新作日本画展」を渋谷・東横で開催。4月 NHKテレビ文芸劇場で「友情」(十朱幸代、石浜朗他出演)放映。NHK教育テレビで「白雲先生」放映。第7回「美術家祭」で日本画家高齢功労者として表彰される。「大調和展」の復活第1回展を上野・都美術館で開催。以後毎年出品。兄、公共死去。8月 大阪・高島屋の「薔薇会展」に出品。11月 トルストイ記念祭で講演(日本青年館)。 1963年(昭和38年)78歳 1月 「武者小路実篤墨彩展」を大阪・アベノ近鉄画廊で開催。4月よりNHKの連続テレビ小説で「あかつき」放映。「武者小路実篤近作油絵展」を日本橋・三越で開催。7月 日本橋・三越で開催された「満15周年記念〈心〉同人陶器展」に出品。8月 日向新しき村が財団法人になる。11月 新しき村45周年記念祭を共立講堂で開催。 1964年(昭和39年)79歳 5月 「実篤個展」を大阪・高島屋で。10月 「武者小路実篤書展」を日本橋・三越で開催。 1965年(昭和40年)80歳 2月 「武者小路実篤小品展」を池袋・西武で開催。NHKラジオで「身辺雑記」放送。3月 「この人この道・林武」および「文学風土・国木田独歩」(ともにNHKテレビ)にゲスト出演。5月 東京都より名誉都民称号を贈られる。満80歳祝賀会を上野精養軒で開催。8月 吉井画廊での「忘れ得ぬ作品展」に油彩《日向、新しき村》を出品。11月 日本橋・三越の「新しき村美術展」に出品。 1966年(昭和41年)81歳 1月 「5周年記念大調和展」に出品。2月 毎日新聞社主催「我が愛する書画展」を日本橋・三越で開催。4月 実篤詩「笛を吹く人」萩江露友作曲、初演(帝国ホテル演芸場、「萩江露友の会」)。「武者小路実篤人形絵展」を日本橋・三越で開催。5月 書画落款を「実篤」と当用漢字に改め、年齢を書き添えることとする。8月 「その妹」上演(俳優座新人会第25回公演)。 1967年(昭和42年)82歳 1月 「武者小路実篤近作展」を新宿・伊勢丹で、「熊谷守一・武者小路実篤二人展」を上野・松坂屋で開催。日本橋・三越の第20回「新しき村美術展」および大阪・アベノ近鉄画廊の「墨彩画展」に出品。4月 日本橋・三越の「弥三郎窯作品展」に出品。7月 日本橋・三越で〈心〉20周年の記念色紙展が開催される。 1968年(昭和43年)83歳 4月 新しき村に50周年記念碑が建つ。7月 NHK教育テレビで中川一政、臼井吉見との対談「この人と語る」放映。8月 「武者小路実篤日本画展」を日本橋・三越で開催。日向新しき村のある木城町で記念碑2基を除幕。「新しき村50周年記念美術展」を日本橋・三越で開催。11月 「新しき村50周年祭」を文京公会堂で開催、講演、詩「新しき村五十年の祭日に」朗読。「新しき村50周年記念武者小路実篤書展」を有楽町・ギャラリー・アートで開催。 1969年(昭和44年)84歳 1月 東京12チャンネルの「私の昭和史・新しき村の五十年」に出演。4月 日向新しき村に50周年記念碑が建つ。5月 「武者小路実篤作品展」を酒田・本間美術館で開催。7月 東京12チャンネルの「人に歴史あり」に出演。8月 「第22回新しき村美術展」を日本橋・三越で開催。 1970年(昭和45年)85歳 4月 「書展」を有楽町・ギャラリー・アートで開催。6月 「武者小路実篤満八十五歳記念展」を有楽町・ギャラリー・アートで開催、梅原龍三郎、熊谷守一、中川一政、林武ら賛助出品。11月 「新しき村52年祭」を岩波ホールで開催。 1971年(昭和46年)86歳 5月 「武者小路実篤展ーその豊かな流れ」東京都近代文学博物館で開催。6月 「愛と死」松竹で映画化(栗原小巻、新克利ら出演)。10月 志賀直哉死去。「白樺派の画家たちー草土社、大調和回顧展」日本橋・東急で開催。 1972年(昭和47年)87歳 1月 「和と真・武者小路実篤展」を上野・松坂屋で開催。5月 米寿祝賀会を丸の内・東京会館で開催。文壇・画壇、新しき村会員など数百名参会。6月 米寿記念「福寿開展」を銀座・吉井画廊で開催。9月 詩「笛を吹く人」が、團伊玖磨の作曲、萩江露友の協力で、牧阿佐美バレエ団により上演され、孫娘有紀子が出演。10月 NHK録音集「武者小路実篤ーこの人この道」を日本クラウンより発売。 1973年(昭和48年)88歳 4月 日本橋・三越の「心25周年記念作品展」に出品。6月 安子が東京女子医大病院に入院。九月中旬、退院。 1974年(昭和49年)89歳 1月 園池公致死去。11月 新しき村の機関誌〈この道〉を創刊時の〈新しき村〉と改題。12月 「白樺とその周辺ー書画展」銀座・吉井画廊で開催。油絵《蔬菜図》(讃あり)、油絵として最後の作品となる。当館所蔵。 1975年(昭和50年)90歳 1月 NHKテレビで「九十歳の春」放映。「真と和の画業・武者小路実篤作品展」を上野・松坂屋で開催。月末、安子2回目の入院、3月末退院。4月 「白樺派の作家展」日本近代文学館で開催。5月 卒寿祝賀会の信濃町・東医健保会館で開催。6月 「卒寿記念武者小路実篤展」を大阪・高島屋で開催。7月 日本橋・三越の「第28回新しき村美術展」に出品。この夏は健康がすぐれず、〈心〉〈PHP〉〈うえの〉〈新しき村〉に連載の原稿もほとんど休稿。安子、土地・家屋・美術愛蔵品等を実篤記念のため、公的なものとする旨の遺言状を作成。12月 安子、上祖師谷至誠会病院に3度目の入院。 1976年(昭和51年) 1月 自宅仙川例会(毎月第2日曜)に最後の出席。危篤を続ける安子を入院先に見舞い、翌日脳卒中の発作を起し病床につく。2月 安子死去。3月 狛江の慈恵医大第3病院に入院。4月9日 早朝4時25分、死去。没年90歳。10日近親と新しき村の会員により、仙川の自宅で密葬。24日 青山葬祭場で無宗教の葬儀を挙行。斎場は谷口吉郎設計、葬儀委員長は梅原龍三郎、里見トン、中川一政の3名、会葬者1,500余名。5月16日 新しき村大愛堂に、3月に納められた安子の遺骨と並べて納骨。6月 〈新しき村〉追悼特集。7月〈心〉追悼特集。〈新潮〉〈群像〉〈海〉〈文芸〉〈現代〉〈婦人公論〉〈婦人之友〉〈新美術新聞〉他の日刊紙、週刊誌が追悼記事を掲載。8月 東京都調布市若葉町の自宅並びに愛蔵品は調布市に、近代美術品・文学資料は東京都に、一部は新しき村、三鷹市等に、それぞれ寄贈。「追悼、新しき村美術展」が日本橋・三越で開催される。11月 「人生の詩人・武者小路実篤展」吉祥寺・東急で開催。12月 〈信州白樺〉が追悼特集号を刊行。