調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』1号 より2001年9月30日発行

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小説『大愛』

円熟期の作品群
「山谷もの」の登場

昭和二三年、六三歳の実篤は小説「彼の羨望」(『小説新潮』七月号)を発表しました。これが、昭和四四年(実篤八四歳)の「泰山「馬鹿一」の三回忌に語る」(『心』八月号)を最終作とする六十余編の「山谷もの」のスタートでした。

単純な人物に見えて、不思議に人間の美質に敏感な男、山谷五兵衛が見聞して来たことを、小説家が聞き書きするというスタイルなので、山谷ものと呼ばれ、実篤の円熟振りを示す作品群です。

真理先生、馬鹿一、白雲、泰山等という登場人物は、人間と自然をこよなく愛し信ずる脱俗的な人々で、いずれも実篤の分身と思われます。

雑誌『心』に連載された長編小説「真理先生」は昭和二六年、調和社版の単行本として版を重ね、さらに角川文庫の一冊としてベストセラーとなりました。 翌二七年『心』に発表の戯曲「馬鹿一の夢」は、後年、宇野重吉が病苦に耐えて演じ、文字通り名優の最期を飾る舞台となったものでした。

興味深い数々の「山谷もの」の中から、今回は小説「大愛」をご紹介することに致しましょう。

小説「大愛」の内容

一 書家・泰山、美少女の墓碑銘を書く
兄の高名な画家白雲とは違い、弟の泰山は無名の書家です。世におもねらず己れの信ずる道をこつこつと精進しています。或る機会に"力の籠った世にまれな字だ"という兄の推奨の言もあって、泰山の名がたちまち世に高まり、彼の書をほしがる人がたいへん多くなってまいりました。

ある日、山谷五兵衛が訪ねると、泰山は、大きな紙に小さな文字を真剣に書き連ねています。それは、数人の女子学生の熱心な願いに応じての仕事でした。彼女たちの学園に、気立てが良く美貌で、人々の憧憬の的となっている少女がいました。彼女は難病を患いましたが、家の貧しさ、父親の苦しみを思って、自らの病いを秘したまま世を去りました。

父はもとより、多くの学友、教師たちが悲嘆にくれました。

二 一教師による父親への手紙
少女をいつくしんでいた教師の一人が、悲しみの底にいる少女の父親に、懇切な慰めの手紙を送りました。

教師は、夢に少女が現われて語ったことをしたためました。少女は、私は大愛に包まれて死んだのだから、悲しまないでいいのだと言ったと。また、彼女はこのように語ったと。「人間は大愛にだかれて生まれ、大愛にだかれて生き、大愛にだかれて死ぬのよ。私それを死ぬ時初めて知ったのです。このことを先生に知らせて上げたくつて、今日来たのです。どうか、私の父や母を慰めて上げて下さい。私は大愛のもとに帰ったのです。私を不幸とは思はないで下さいつて、私の両親におつしやつてください。」

教師の手紙には、この前後に故人と両親への真情、大愛という言葉への深い重いが切々と述べられていました。

三 泰山の祈り
亡き美少女を慕う学友や両親は、この手紙を墓碑銘として、泰山の書によって永く残すことを願ったのです。泰山もまた、手紙の美しさ、なかんずく「大愛」の一語に感銘し、快く揮毫を引き受け、一心に筆を進めています。そして、泰山は、いずれ年老いた自分と兄がこの碑を見に行く時を思い、何百年も後世の人が読む事を思い、この文字によって、「人の心に鉄線となってひびき渡りたい。」と、心に念じます。

実篤の大愛観

以上が小説「大愛」のあらましです。昭和二八年実篤六八歳。『小説公園』四月号に掲載されました。

実は、小説「大愛」の前に実篤は、「大愛」と題する随筆を雑誌『新しき村』同年三月号に、また「大愛に就て」という文章を雑誌『友愛』三月号に発表しています。どちらも短く似た内容のものです。「自分はこの頃、「大愛」と言う事に就てくり返し考えている…」という書き出しで『新しき村』の文章は始まっています。

当時、短い間でしたがかなり苦痛を伴う病気をした実篤は、人間の老病死の悩みについて実感的な問題として考えさせられました。病苦、死苦にさいなまれる人間のもろさ等を実篤はひしひしと感じたのでしょう。そして実篤はこう述べています。「この時である。自分は何か自分の足もとから大きな円形をかいて、何か自分を愛そうとしているものを感じた。自分が自分の一身をそのものに任せれば、そのものは自分も受け入れてくれる。自分はそのものを「大愛」とふと名づけた。そして、自分は自分の死ぬのも生きるのも、そのものに任せればいいのだ。そう思うと何か温いものを感じた。」

新しき村の「大愛堂」

昭和三一年四月、埼玉県毛呂山町の新しき村に、村に生きた人、村を愛した人々のための簡素な納骨堂が建立されました。そのお堂正面に実篤筆「大愛」の偏額が掲げられ、自ずと「大愛堂」の名が定着しました。実篤ご夫妻もここに眠っておられます。昭和五二年にはさらに美しい姿のお堂に改修され、村の人々に大切に守られています。

(岩井貞雄 当館専門員)