調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』15号 より2008年9月30日発行

「新しき村に就いての対話」

新しき村九十周年
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土地探しに宮崎に向かう途中で
大坂支部講演会
大正7(1918)年9月

「新しき村に就ての対話」は、武者小路実篤が〈新しき村〉をはじめる第一歩となった作品です。実篤が二十三歳の時(一九〇八年)の日記には「自分は此頃になつて何か大きな仕事が出来る様に思へて来た。(略)それは新しき社会をつくる事だ。理想国の小さいモデルを作る事だ」と書きました。その十年後、実篤が三十三歳の時(一九一八年)の時に、「第一の対話」「第二の対話」「第三の対話」からなる「新しき村に就ての対話」を書きました。実篤は「新しき村に就ての対話」をふくむ単行本『新しき村の生活』を八月に出版し、一一月には宮崎県児湯郡木城村(現・木城町)の土地を買う契約を済ませ、そのまま家族や同志の仲間と暮らしはじめました。ことしは、実篤が「理想国の小さいモデルを作る」と日記に書いてから百年、実行に移されてから九十年の記念すべき年です。

出発点は対話

日記にひとりごとのように書かれたアイディアが、十年経って現実に〈新しき村〉となって実現されたのですが、〈新しき村〉誕生の時に、対話という形式が取られたことには大きな意味があると思います。

作家・武者小路実篤は、対話的な発想とともに生まれたと言っても過言ではありません。彼は青年時代に、「社会の不正を許すな、自分を犠牲にして弱者に尽くせ、欲望に打ち勝て」というトルストイの思想に強い影響を受けました。実篤自身が幼い頃から、理屈っぽく、不正を嫌っていたから、自分の考えを徹底し、体系化したように見えるトルストイを深く尊敬したのです。しかし、彼はトルストイから離れていきます。トルストイの思想の影響を受けている時期に書かれた、最初の単行本『荒野』を自費出版した後、実篤の文学は、安楽や性欲など、みずからの欲望とエゴイズムを肯定しはじめます。その時に定着したのが、対話の発想でした。対話は、多様な価値観、多角的な視点を受けいれる形式です。彼は、対話の発想を通して、トルストイの考えとエゴイズムの両立を図ったといってもいいでしょう。二冊目の単行本『おめでたき人』の中には、対話作品が、「無知万歳」「亡友」「空想」と三作もふくまれています。

エゴイズムをふまえた理想主義

実篤の文学は、エゴイズムを取り入れ、複雑で混沌とした感情の表現を特徴として、出発しました。理想の世界をつくるために作られた〈新しき村〉は、このような初期の文学と正反対に見えるかもしれませんが、実はそうではありません。「新しき村に就ての対話」から引用しましょう。

釈迦や耶蘇の生活を一番正しいものとは自分達には思へなくなつてゐる。僕達はもう少し現世を信用することが出来る。エゴイストを肯定することが出来る。(「第一の対話」)利己心は生かし切ればいゝことを知つた。さうすればそれは愛と一致することを知つた。(「第二の対話」)

自伝小説「或る男」(一〇〇章)に「文学をやらうと思つたのと、新しき世界を生み出したいと思つたのとは、殆ど同時である」とありますが、実篤における文学と〈新しき村〉はいずれもエゴイズムの価値を知った時に産声をあげたのだといえそうです。人間の心から取り去ることのできないエゴイズムの存在を認めることによって、彼の文学と理想主義的行動はリアリティーを獲得したのです。

現実主義に逃げ込まないように

「第一の対話」「第二の対話」「第三の対話」はいずれも、Aと先生による一対一の対話です。Aは先生の考えの空想性を鋭く指摘します。「第一の対話」でAは、「先生は相変らず楽天家ですね」「先生は相変らず空想家ですね」「先生、そんなことは判り切つてゐます」「さう理想的に往けばですね」と繰り返し、ユートピア的な発想を容易に受けいれません。また、「第二の対話」の冒頭には「いろいろ考へてゐる内に、矢張り先生の空想は中々実現出来ないものだと云ふことがわかつてがつかりしました」という、Aの言葉があります。実篤の理想主義はエゴイズムから踏み出したものですから、現実主義からの疑問や批判を、みずから〈新しき村〉の発想にぶつけることはたやすいことだったのです。

「第三の対話」の末尾近くで、先生は書きつけてきたいくつかの覚え書きをAに読み聞かせます。その中には、次の一節がありました。

「自分達は良心にたいして自分達を無能力者だからと云ふ云ひわけをつかふことはやめにしよう。協力さへすれば、そして本気になれば無能力ではない。

実篤が〈新しき村〉をつくることで切り開いたのは、世界の人々が理想的に生活できる可能性だけではなく、新しい行動を起こす前に現実主義に逃げ込む精神に対する批判だったののだといえます。

(二松学舎大学・准教授 瀧田浩)