武者小路実篤 略年譜 1885年(明治18年) 5月12日 東京市麹町区元園町1-38(現東京都千代田区一番町19-4)に生まれる。父・子爵武者小路実世(さねよ)、母・秋子(なるこ)(勘解由小路(かでのこうじ)家)。 1887年(明治20年)2歳 10月 父・実世死去。 1891年(明治24年)6歳 9月 学習院初等学科入学。朗読と数学が良く、体操、音楽、習字、図画、作文が苦手。 1895年(明治28年)10歳 この年より、三浦半島金田に移住した叔父・勘解由小路(かでのこうじ)資承(すけこと)のもとに、毎年夏訪れる。 1897年(明治30年)12歳 7月 学習院初等学科卒業、9月、中等学科入学、武課と体操が嫌いだった。 1902年(明治35年)17歳 9月 中等学科6年に進む。志賀直哉と同級になり、親しくなる。 1903年(明治36年)18歳 3月 短編「初恋」のお貞さんが帰郷、うちあけぬままの失恋が文学へ傾斜させる。9月 学習院高等学科に進む。この頃から、トルストイに強くひかれ、また聖書、仏典をしきりに読む。 1906年(明治39年)21歳 7月 学習院高等学科を卒業、成績はビリから4番だった。9月 東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修に入学。この頃より盛んに創作をこころみる。 1907年(明治40年)22歳 4月14日 志賀直哉・正親町(おおぎまち)公和(きんかず)・木下利玄(としはる)と文学研究会《十四日会》をつくり、毎月創作を批評しあう。また、美術への関心も深める。8月 兄・公共の同意を得、文学を志して大学を中退。この頃、メーテルリンク『智慧と運命』(ドイツ語訳)を読み、トルストイの禁欲的傾向から自己の解放を図る。 1908年(明治41年)23歳 4月 処女作品集『荒野』を自費出版。7月 《十四日会》で回覧雑誌〈暴矢(ぼうや)〉(のちに〈望野〉と改称)を始める。9月 「芳子」(自ら処女作という)を執筆。 1909年(明治42年)24歳 4月 学習院二年後輩の里見トン・園池公致(きんゆき)・児島喜久雄らの回覧雑誌〈麦〉、三年後輩の柳宗悦(むねよし)・郡虎彦等の回覧雑誌〈桃園〉と、〈望野〉と合同で新しい雑誌の発行を計画。1年の準備期間を置く。10月 戯曲「ある家庭」(戯曲の処女作)を執筆。 1910年(明治43年)25歳 2月 小説「お目出たき人」を執筆。4月 『白樺』創刊。「発刊の辞」「『それから』に就て」「重い歌」発表。有島武郎、有島生馬、一年遅れて長与善郎も参加。9月 11月の『白樺』〈ロダン号〉のために有島壬生馬を通してロダンと文通。11月 『白樺』でロダン記念号を発行。「ロダンと人生」、戯曲「夢」(のちに「ロダンの『接吻』の来た夢」と改題)を発表。 1911年(明治44年)26歳 7月 白樺同人から、ロダンの求めに応じて浮世絵30枚を送る。これに対してブロンズの彫刻三点が贈られ、12月22日横浜に届く。11月 「『自己の為』及び其他について」を『白樺』に発表。木下杢太郎と「絵画の約束事」論争を展開。12月 岸田劉生が訪問、交友が始まる。 1913年(大正2年)28歳 2月 竹尾房子と結婚。 1914年(大正3年)29歳 1月 戯曲「わしも知らない」を『中央公論』に発表。5月 生家を出て、麹町区下二番町58に家を借りる。 1915年(大正4年)30歳 1月 神奈川県鵠沼海岸の佐藤別荘に転居、さらに4月川本別荘に転居。3月 戯曲「その妹」を『白樺』に発表。9月 豊多摩郡千駄ケ谷832に転居。翌年1月、小石川区小日向台町1ー50に転居。 1916年(大正5年)31歳 3月 戯曲「ある青年の夢の序」を、4月 戯曲「或る青年の夢」を『白樺』に5回連載(〜11月)。12月 我孫子(東葛飾郡富勢村根戸字船戸1090)に転居。我孫子には志賀直哉・柳宗悦が住み、後にバーナード・リーチも移住。 1917年(大正6年)32歳 10月 『白樺』10月号に「美術館をつくる計画に就て(並びに同志の人の寄附)」を発表。日本最初の西洋近代美術の美術館設立を提唱。 1918年(大正7年)33歳 5月〜7月 後に「新しき村に就ての対話」と改題された三つの対話を『白樺』と『大阪毎日新聞』に発表し、新しき村の創設を提唱。7月 機関雑誌『新しき村』を創刊。9月、新しき村建設のために我孫子を出発。11月 宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村大字石河内(いしかわち)字城に「新しき村」を創設。 1919年(大正8年)34歳。 この年、農作業、建築の手伝い、資材の運搬などの仕事を村の青年たちとともに分担した。1月 小説「自分の師」(のちに「幸福者」と改題)を『白樺』に5回連載(〜6月)。4月 『白樺』創刊10周年。記念号を刊行、また岸田劉生展、コンサートを開催。8月 小説「耶蘇」を『新しき村』に9回連載(〜大正9年6月)。10月 小説「友情」を『大阪毎日新聞』に48回連載(〜12月)。 1921年(大正10年)36歳 1月 小説「出鱈目」(のちに「第三の隠者の運命」と改題)を『白樺』に14回連載(〜大正11年10月)。3月 「白樺美術館展覧会」を開催。セザンヌ「風景」、ゴッホ「向日葵」等が公開された。7月 自伝小説「或る男」を『改造』に19回連載(〜大正12年11月)。 1922年(大正11年)37歳 2月 新しき村の生活農業用水確保のため大水路建設に着手。白樺同人らは、『現代三十三人集』を刊行、また「新しき村の為の会」を開催し、その利益等を村に寄附した。9月 戯曲「人間万歳」を『中央公論』に発表。この年、房子と離婚。前年新しき村に入村した飯河(いごう)安子と結婚。 1923年(大正12年)38歳 9月1日 関東大震災。母は無事だったが生家が焼失。『白樺』は終刊となる。12月 長女・新子誕生。この頃から、熱心に絵(鉛筆素描、墨画淡彩)描き始める。 1924年(大正13年)39歳 4月 長与善郎を中心とし、文芸雑誌『不二』創刊(〜大正15年7月)。 1925年(大正14年)40歳 1月 戯曲「運命と碁をする男」を『不二』に2回連載(〜2月)。小説「彼等と彼女等」(のちに「若き人々」と改題)を『女性』に15回連載(〜大正15年3月)。2月 木下利玄死去。次女・妙子誕生。7月 新しき村に印刷所を作る。9月、ドイツのレクラム文庫にならって日本最初の文庫本「村の本」を刊行。昭和5年までに、15冊を出版。12月 新しき村を離村、志賀直哉が住む奈良に移る。以後、村外会員となり、村の財政と活動を外から支えた。 1926年(大正15年)41歳 1月 奈良市水門町52に転居。戯曲「愛慾」を『改造』に発表。9月 戯曲「ある画室の主」を『改造』に発表。2月 和歌山市外和歌浦町1-1に転居。 1927年(昭和2年)42歳 2月 東京府南葛飾郡小岩村(現葛飾区)に転居。小説「母と子」を『東京・大阪朝日新聞』に168回連載(〜8月)。4月 『大調和』を創刊(〜昭和3年10月)。小説「続 或る男」を『大調和』に3回連載(〜6月)、未完のまま連載休止。9月 “最初にかいた油絵”と記す「南瓜」を描く。以後、油絵もさかんに描くようになる。11月「大調和展覧会第1回展」を開催。 1928年(昭和3年)43歳 11月 母・秋子(なるこ)死去。三女・辰子誕生。個人雑誌『獨立人』を創刊(〜昭和5年6月)。 1929年(昭和4年)44歳 2月 最初の個展を日本橋・丸善で開催。10月 小説「二宮尊徳」を『キング』に10回連載(〜昭和5年7月)。2月 神田猿楽町に実篤個人経営の美術品販売と出版の店『日向堂』を開設。岸田劉生死去。 1930年(昭和5年)45歳 この前後の数年、雑誌からの執筆依頼がほとんどなく、みずから“失業時代”という。また、この時期、内外の偉人の評伝を多く執筆した。 1931年(昭和6年)46歳 1月 『星雲』を日向堂から創刊(〜昭和6年9月)。6月 小説「井原西鶴」を『時事新報』に33回連載(〜8月1日)。 1932年(昭和7年)47歳11月 長与善郎と二人雑誌『重光』を創刊(〜昭和9年10月)。 1935年(昭和10年)50歳 8月 家族と共に滞在中の伊豆・三津(みと)海岸で座骨神経痛を患い、一ヶ月病臥。  1936年(昭和11年)51歳 4月27日 横浜から欧米旅行に出発。各地で美術館と画家を歴訪。7月 「欧洲見聞記」を『現代』に6回連載(〜昭和12年1月)8月 「オリムピツク観戦記」を『東京朝日新聞』に14回連載(8月2日〜15日)。 12月12日 帰国。 1937年(昭和12年)52歳 6月 北多摩郡三鷹村牟礼359に転居。帝国美術院会員となる。 1938年(昭和13年)53歳 11月 『人生論』を岩波新書のために書き下ろしで岩波書店より出版。12月 宮崎県営の水力発電所建設のため、新しき村の耕地の一部が水没することになり、交渉のため宮崎を訪問。 1939年(昭和14年)54歳 4月 出版への取り締まりが厳しくなる中、反戦的な「その妹」が警視庁検閲課により一部削除処分となる。7月 小説「愛と死」を『日本評論』に発表。9月 埼玉県入間郡毛呂山もろやま町葛貫に1.08haの土地を購入し、東の新しき村を創設。日向の村と東の村にそれぞれ二家族で再出発となった。 1940年(昭和15年)55歳 1月 小説「幸福な家族」を『婦人公論』に10回連載(〜10月)。9月 三鷹市牟礼490に転居。 1942年(昭和17年)57歳 5月 日本文学報国会劇文学部会長に就任。 1943年(昭和18年)58歳 4月 中国・南京で開かれた中日文化協会主催全国文化代表者大会に参加。9月 戯曲「三笑」を執筆。 1944年(昭和19年)59歳 12月 家族と共に伊豆大仁へ疎開。 1945年(昭和20年)60歳 5月 疎開先を新潟・三条市に移る。5月 小説「母の面影」(のちに改題「若き日の思ひ出」)を『陸輸新報』に103回連載(〜10月)。6月 疎開先を秋田県の稲住温泉に移る。8月16日 終戦を一日遅れで知り、この日と翌日は原稿も画もかかなかった。9月、帰京。10月 小説「愚者の夢」を脱稿。 1946年(昭和21年)61歳 3月 貴族院の勅選議員に任命される。7月 公職追放令G項該当者に指名され、貴族院議員、芸術院会員を辞任。 1947年(昭和22年)62歳 1月 『向日葵』を創刊(〜昭和23年1月)。「発刊辞」「向日葵独語」「六号雑記」等を発表。 1948年(昭和23年)63歳 7月 志賀直哉、長与善郎、安倍能成らと共に『心』を創刊(〜昭和56年8月)。創刊号に「巻頭言」「余禄」などを発表。小説「彼の羨望」(山谷五兵衛ものの第1作)を『小説新潮』に発表。11月 小説「馬鹿一」を『心』に、発表。 1949年(昭和24年)64歳 1月 小説「真理先生」を『心』に22回連載(〜昭和25年12月)。 1950年(昭和25年)65歳 5月 新しき村会員が設立した調和社により『武者小路実篤著作集』第1巻として『人生論』を刊行、以後、昭和26年末まで全7巻を刊行。 1951年(昭和26年)66歳 8月 公職追放解除。11月 文化勲章を受章。三鷹市名誉市民の称号を贈られる。12月 『真理先生』が角川文庫に入り、ベストセラーとなる。 1952年(昭和27年)67歳 4月 日本芸術院会員に復帰。 1953年(昭和28年)68歳 9月 小説「空想先生」を『小説公園』に発表。この頃、三鷹の家には娘たちの三家族が同居、孫7人を含む総勢15人であった。 1954年(昭和29年)69歳 1月 小説「山谷五兵衛」を『心』に21回連載(〜昭和31年3月)。5月 『花は満開』を古稀祝寿版として角川書店より出版。10月 京王線仙川駅近くの泉と池のある土地約1,000坪を購入。建築家山口芳春に新居の設計を依頼。 1955年(昭和30年)70歳 7月 『古稀画帖』を清宮彬刻刷で限定50部刊行。12月 妻・安子と二人で、調布市入間町荻野468(現若葉町1-23-20)の新居に移る。 1957年(昭和32年)72歳 3月 小説「静かな港」(のちに「白雲先生」と改題)を『群像』に発表し、4月より小説「白雲先生」を『心』や『随筆サンケイ』に連載(〜昭和34年3月)。 1958年(昭和33年)73歳 11月 「新しき村40周年記念祭」を九段会館で開催。この年、新しき村は経済的自活を達成。 1959年(昭和34年)74歳 9月 小説「馬鹿一の死」(のちに「馬鹿一の一生」と改題)を『心』に8回連載(〜昭和35年4月) 1960年(昭和35年)75歳 4月 新しき村より『この道』を創刊。「道徳論」を11回連載(〜昭和36年4月)。また、毎号のように挿絵解説を執筆。 1961年(昭和36年)76歳 1月 朝日ソノラマ(第14号)「友情(自作朗読)」を朝日ソノプレスから発表。 1962年(昭和37年)77歳 4月 兄・公共死去。6月「兄の思い出」を『心』に6回連載(〜12月)。 1965年(昭和40年)80歳 1月 小説「山谷五兵衛完敗」を『オール読物』に発表。5月 東京都より名誉都民称号を贈られる。文壇画壇・出版界有志の発起による満80歳祝賀会が、上野精養軒で開催される。80歳を機に、以後、書画への署名を常用漢字に改め、満年齢を書き添えることとする。5月 14日より「わが家」を『東京新聞』に13回連載(〜6月3日)し、のちに他のものとともに『思い出の人々』に収録。 1966年(昭和41年)81歳 4月 荻江露友リサイタルのために「笛をふく人」を作詞。 1967年(昭和42年)82歳 1月 小説「一人の男」を『新潮』に45回連載(〜昭和45年12月)、小説「平平凡凡」を『オール読物』に発表。3月 「私の美術遍歴」を『うえの』に79回連載(〜昭和50年3月)。8月 シリーズ「五〇〇字提言」を『PHP』に連載(〜昭和45年12月)。 1968年(昭和43年)83歳 4月 新しき村の創立50年に関連したものを、毎月『この道』に発表。11月 新しき村50周年祭を文京公会堂で開催。この会のために182行の詩「新しき村五十年の祭日に読む為につくる」を執筆、自ら朗読する。 1969年(昭和44年)84歳 8月 小説「泰山『馬鹿一』の三回忌に語る」(山谷五兵衛もの60篇目で最後の作)を『心』に発表。 1970年(昭和45年)85歳 1月 詩「平気で生きている」を、4月 詩「私は人間」を、5月 詩「人間を愛する」を、6月 詩「純粋に生きて見たい」など、この頃から、毎号『心』に詩を発表。 1971年(昭和46年)86歳 1月 シリーズ「人生随想」(「五〇〇字提言」を改題)を『PHP』に連載(〜昭和50年1月)。10月 志賀直哉死去。 11月 詩「生きている間は(志賀に死なれて)」を『心』に発表、「或る老画家」50枚を『新潮』に発表、これが小説としての最後の作品となる。 1972年(昭和47年)87歳 5月 文壇画壇有志の発起による米寿祝賀会が、東京会館で開催される。 1973年(昭和48年)88歳 12月 筑摩書房刊行の明治文学全集(76)『初期白樺派文学集』で再版に応じなかった『荒野』の収載を65年ぶりに認める。 1974年(昭和49年)89歳 12月 「蔬菜図」(油彩)を描く、最後の油絵となった。 1975年(昭和50年)90歳 1月 『PHP』の「シリーズ 人生随想」が34回で最終となる。 1976年(昭和51) 1月 入院中の安子を見舞い、翌日脳卒中の発作を起こし病床につく。2月 安子死去。4月9日 死去。没年90歳。死去に際し、従三位を追贈される。24日、青山葬祭場で無宗教の葬儀が行われた。葬儀委員長は梅原龍三郎・里見トン・中川一政。5月16日、新しき村大愛堂に遺骨を安置。8月 実篤記念のため、自宅の土地・家屋・美術品・愛蔵品を公的なものとする旨の、安子生前の遺言に従い、調布市・東京都・三鷹市・新しき村にそれぞれ寄贈された。