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東京市麹町区元園町1-38(現:東京都千代田区一番町19-4)に生まれる。父・子爵武者小路実世(さねよ)、母・秋子(なるこ)(勘解由小路(かでのこうじ)家出身)の8番目の末子。
父・実世死去、享年35歳。
学習院初等学科入学。朗読と数学が良く、体操、音楽、習字、図画、作文が苦手。
この年より、三浦半島金田に移住した叔父・勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)のもとに、毎年夏訪れる。
学習院中等学科6年に進む。志賀直哉と同級になり、親しくなる。
学習院高等学科に進む。この頃から、トルストイに強くひかれ、また聖書、仏典をしきりに読む。
短編「初恋」のお貞さんが帰郷、うちあけぬままの失恋が文学へ傾斜させる。
学習院高等学科を卒業、9月 東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修に入学。
志賀直哉・正親町公和(おおぎまちきんかず)・木下利玄(としはる)と文学研究会《十四日会》をつくり、毎月創作を批評しあう。また、美術への関心も深める。
処女作品集『荒野』を自費出版。
志賀直哉、有島武郎、有島生馬、柳宗悦らと『白樺』を創刊。
12月22日、白樺同人からロダンへ浮世絵30枚を送り、その御礼に贈られたブロンズ彫刻3点が届く。
岸田劉生が訪問、交友が始まる。
竹尾房子と結婚。
生家を出て、麹町区下二番町58に家を借りる。
戯曲「その妹」を『白樺』に発表。この数年、神奈川県鵠沼や東京で度々転居。
我孫子(東葛飾郡富勢村根戸字船戸1090)に転居。我孫子には志賀直哉・柳宗悦が住む。
『白樺』10月号で日本最初の西洋近代美術の美術館設立を提唱。
『白樺』と『大阪毎日新聞』などで新しき村の創設を提唱。7月 雑誌『新しき村』を創刊。
宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村大字石河内(いしかわち)字城に「新しき村」を創設。
この年、農作業、建築の手伝い、資材の運搬などの仕事を村の青年たちとともに分担した。
小説「幸福者」を『白樺』に5回連載(〜6月)。
小説「友情」を『大阪毎日新聞』に48回連載(〜12月)。
「白樺美術館第一回展覧会」を開催。セザンヌ「風景」、ゴッホ「向日葵」等が公開。
自伝小説「或る男」を『改造』に19回連載(〜大正12年11月)。
この年、房子と離婚。前年新しき村に入村した飯河(いごう)安子と結婚。
関東大震災。母は無事だったが生家が焼失。『白樺』は終刊となる。
長女・新子誕生。この頃から、熱心に絵(鉛筆素描、墨画淡彩)描き始める。
次女・妙子誕生。
9月にドイツのレクラム文庫にならい日本最初の文庫本「村の本」を新しき村印刷所より刊行。
新しき村を離村、志賀直哉が住む奈良に移る。以後、村外会員として村の活動を支えた。
戯曲「愛慾」を『改造』に発表。
「愛慾」が築地小劇場で上演される。
東京府南葛飾郡小岩村(現葛飾区)に転居。
『大調和』を創刊(〜昭和3年10月)。
"最初にかいた油絵"と記す「南瓜」を描く。以後、油絵もさかんに描くようになる
母・秋子(なるこ)死去。三女・辰子誕生。個人雑誌『獨立人』を創刊(〜昭和5年6月)。
最初の個展を日本橋・丸善で開催。
神田猿楽町に実篤個人経営の美術品販売と出版の店『日向堂』を開設。岸田劉生死去。
この前後の数年、雑誌からの執筆依頼がほとんどなく、みずから"失業時代"という。また、この時期、内外の偉人の評伝を多く執筆した。
横浜から欧米旅行に出発。各地で美術館と画家を歴訪。12月12日帰国。
『人生論』を岩波新書のために書き下ろしで岩波書店より出版。
宮崎県営の水力発電所建設のため、新しき村の耕地の一部が水没することになり宮崎を訪問。
小説「愛と死」を『日本評論』に発表。
埼玉県入間郡毛呂山(もろやま)町葛貫(つづらぬき)に東の村(新しき村)を創設。
三鷹市牟礼490に転居。
終戦を疎開先の秋田県稲住温泉で一日遅れで知り、この日と翌日は原稿も画もかかなかった。9月、帰京。
小説「愚者の夢」を脱稿。
公職追放令G項該当者に指名され、貴族院議員、芸術院会員を辞任。
新しき村を財団法人とし、実篤は理事長となる。
志賀直哉、長与善郎、安倍能成らと共に『心』を創刊(〜昭和56年8月)。
小説「真理先生」を『心』に22回連載(〜昭和25年12月)。
「武者小路実篤個展」を日本橋・壷中居で開催。以後、昭和50年まで毎年開催。
公職追放解除。
文化勲章を受章。
この頃、三鷹の家には娘たちの三家族が同居、孫7人を含む総勢15人のにぎやかな生活であった。
妻・安子と二人で、調布市入間町荻野468(現:若葉町1-23-20)の新居に移る。
「新しき村40周年記念祭」を九段会館で開催。この年、新しき村は経済的自活を達成。
「大調和展」の復活第一回展を上野・東京都美術館で開催。実篤は会長となり、以後、毎年出品。
実篤原作のNHK連続テレビ小説「あかつき」が1年間、放映。
東京都より名誉都民称号を贈られる。文壇画壇・出版界有志の発起による満80歳祝賀会が、上野精養軒で開催される。
80歳を機に、以後、書画への署名を常用漢字に改め、満年齢を書き添えることとする。
小説「一人の男」を『新潮』に45回連載(〜昭和45年12月)。
「私の美術遍歴」を『うえの』に79回連載(〜昭和50年3月)。
新しき村50周年祭を文京公会堂で開催。自作の詩を朗読する。
詩「平気で生きている」を、5月 詩「人間を愛する」など、この頃から、毎号『心』に詩を発表。
志賀直哉死去。
「或る老画家」50枚を『新潮』に発表、これが小説としての最後の作品。
「蔬菜図」(油彩)を描く、最後の油絵となった。
安子死去、享年75歳。
死去、享年90歳。5月16日 新しき村大愛堂に遺骨を安置。
実篤記念のため、自宅の土地・家屋・美術品・愛蔵品を公的なものとする旨の、安子生前の遺言に従い、調布市・東京都・三鷹市・新しき村にそれぞれ寄贈された。