調布市武者小路実篤記念館

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コラム泉

「コラム泉」は、実篤の思い出、実篤記念館の活動についてなど、
ゆかりの方々にご寄稿いただいたもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』2号 より2002年3月31日発行

四半世紀を過ぎて
武者小路 穣(当館顧問・和光大学名誉教授)

1976年2月、ガンで三度目の入院をしていた実篤の妻安子が死去した。少し前にもう幻覚の出ていた妻を見舞った実篤は、その夜に倒れて会話も失い、妻の葬儀も知らされることなく、4月9日、後を追った。「死ぬまでは生きるなり」と言っていた実篤は、死後のことは念頭になかった。それを熟知し、自分の症状を自覚していた安子は、二度目の入院の時に遺言を作成していた。住んでいる土地・建物は調布市に寄付し、愛蔵品の類は公共のものとする、これは実篤も同意するものと思うという内容で、三女の辰子を執行人に指名してあった。

それから半年、辰子は落ち行く暇はなかった。寄付というのは、寄付します、ありがとう、という簡単なことではなかった。結果としては、土地・建物はともかく品物はまだ調布市に収納する設備がなかったため、西洋美術と日本の近代美術・原稿・書簡などは東京都へ、東洋美術と身辺の品を調布市へとなったが、手続きは大変だ。署名した相続権者(三人の娘)以外に権利者のないことを証明する書類、それぞれに評価額をつけた物件の詳細な目録を添えて、寄付「願」を提出し、それが受理されて始めて寄付させて頂くことができるのである。

幸い新しき村の会員で戦前から東京都庁で局長まで勤められた福田桂次郎氏(後に記念館顧問・故人)が助言や紹介をして下さってどうやら寄付できたが、難題は山積した。美術品は都美術館、文学関係は近代文学博物館ということだったが、岸田劉生の挿絵となると、美術だ、文学関係だともめる始末。調布市に納めることになった品は玉石混淆で、掛軸は中身と箱がバラバラという有様。たまたま私が大学で美術史と博物館学を担当していたので、整理してリストを作成し、古美術商をよんで値踏みをさせて引き渡した時には秋になっていた。調布市で受領にあたられた堀さんも、あの仕事部屋と品物の乱雑ぶりにはめんくらわれたことだろう。じつは、調布市への寄付については、あんな所では美術品も持ち腐れになる、なぜ都に寄付しなかったかとも言われた。しかし、結果として調布市には図録の冒頭の実篤の希望どおり立派に記念館ができ、都のほうには常設の場もなくてピカソも劉生も展覧会の貸出し用になっている。