「コラム泉」は、実篤の思い出、実篤記念館の活動についてなど、
ゆかりの方々にご寄稿いただいたもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。
*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。
先生のお宅にはお正月や4月29日には必ず伺うことにしていました。「老人会」というのがあり、40歳以上の先輩が新しき村のために何かやろうという趣旨で毎月集まっていましたが、私は未だ40前なのでこの会には入らず随時お訪ねしていたのです。
仙川に伺うときは玄関を開けて「新しき村の石川です」と申しますと、画室から「上がって良いよ」とお声がします。黙って正面の応接間に上がって画集等を見ていると、仕事を終えられた先生がおいでになると言うパターンでした。私のほうからお話することは、当時中学校を終えてすぐチェコのプラハに留学した、ヴァイオリニストを目指す長女の静の消息を、写真や手紙などと共にお話することで、ヴィニアフスキー国際コンクールで二位の新聞記事の切り抜きをお目にかけたときには、奥様もご一緒になって大層喜んで下さいました。
ある時仙川のお庭を外から拝見してみようと思い、お別れしてから外へ回りました。左手の坂道から下を覗くとなんとなんと、乳母車を始め様々な物が投げ込まれていました。見ていてこのまま帰るわけには行かないとの思いで、すぐ引き返し黙って掃除を始めました。それは物凄い量でとりあえず大ごみだけ集めて所定の場所に運び、翌週改めて出直すことにしました。今度は大きなビニール袋等をもって取り掛かりましたところ、なんと七つの袋に一杯になるほど雑誌、古着、空罐等々が有ったのです。それから月に一度はお掃除に行くとに決めました。ある時には女性の下着ばかり二束も放り込まれていたこともありました。変態の男がたくさん集めて、始末に困って放り込んだものと思いましたが、腹の立つ話です。
先生宅には内緒で始めたことでお握り持参で始めた仕事ですが、当然見付かってしまいます。「祖父が待っていますから、一段落したらお上がり下さい」と錦子さんに声を掛けられ、汚れた手足を洗ってご挨拶に上がると、仙川鮨がご用意されていると言う状況でした。懐かしい思い出ばかりですが、今もごみを放り込む人は絶えないのかしら・・・・・・等と思いつつ思い出を綴りました。
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