調布市武者小路実篤記念館

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コラム泉

「コラム泉」は、実篤の思い出、実篤記念館の活動についてなど、
ゆかりの方々にご寄稿いただいたもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』18号 より2010年3月31日発行

昭和三十年代の仙川
新井七吾(調布市武者小路実篤記念館 運営事業団監事)

実篤先生が緑と水を求めて移り住んだ昭和三十年代の仙川を、思いつくままにお話しいたします。

私はずっと実篤邸のすぐ近くに住んでいます。昭和三十年頃には、小学六年生か中学一年生で、先生が旧入間町に住んでいることを知りませんでした。又、作品の『友情』も、友達や異性を意識するようになった高校生の頃に読んだのでした。当時は、戦後の復興が急ピッチで進み始める頃で、 仙川駅周辺のまばらだった商店が徐々に増えてきた時期でした。先生の「仙川の家」は、国分寺崖線の中にありますが、この辺りでは、崖線を「羽毛(ハケ)」と呼び、「ハケ下」「ハケ上」といった屋号が今でもあります。当時、「ハケ下」には農家が並び、どの家にも湧水池があり、洗い物に利用していました。湧水は、夏は冷たく、冬は温かく、農家にとっては大変ありがたい恵みでした。「ハケ」は子ども達にとっても良い遊び場でした。沢蟹採りや蛍狩り、冬にはソリ遊びをしたものです。

さて、仙川の近くを入間川が流れていますが、当時は、浅瀬にはしじみ、深い所には魚やうなぎもいて、大人も子どもも、川を利用したり、遊んだりしているような自然豊かな場所でした。そんな様子ですから、実篤先生は、御自宅の周辺を散歩され、自然に触れ、野草や土器を探されたのではないかと思います。実篤邸には、上の池と下の池があり、私が小学生の頃、下の池の周りには垣根も無く、夏は子どもたちの遊び場になっていました。実篤邸の上の池は湧水池でしたが、下の池で魚を追い、ザリ蟹を探したものです。田の作業が始まる六月頃になると、入間川には幾つもの堰が出来ました。私は、自然のプールの様になったその堰の一つで、泳ぎを覚えました。当時は、小学生から中学生まで一緒に遊んでいたので、上級生が泳ぎを教えてくれたのです。

さて、この実篤邸の周辺は、遺跡の多い場所でもあります。特に「ハケ」の上や台地は、埋蔵文化財包蔵地になっており、普段でも少し掘ると土器が出てきます。私の自宅の周りからも、石器や土器が出土します。実篤先生は、土器の拾える所を好んでいたとも聞いています。散策の途中、縄文時代の土器の一部を見つけて、遠い昔に思いを馳せていたのではないでしょうか。

やがて、昭和三十五年頃になると、宅地造成が進み、団地が出来、戸建ての家も増えてきました。人口も増え、昭和三十八年には、小学校が新設され、子どもの声も大きく聞こえるようになりました。このように、仙川は実篤先生の住んでいる間に、現代の姿へと移り変わってきたのでした。