調布市武者小路実篤記念館

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コラム泉

「コラム泉」は、実篤の思い出、実篤記念館の活動についてなど、
ゆかりの方々にご寄稿いただいたもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』24号 より2013年3月31日発行

実篤公園
小野崎 満
(調布市郷土博物館前館長)

私は昭和50年(1975年)、開館間もない調布市郷土博物館に学芸員として奉職、文化財保護事業や博物館事業に38年間携わり、昨年春に定年を迎えました。この間、辞令を受けて武者小路実篤記念館に配属になったことは一度もありませんでしたが、昭和52年(1977年)、実篤公園の開園に先立つ遺跡調査を皮切りに、定年まで実篤記念館とはさまざまな場面で関わりを持ち続けていました。

最初の関わりは、昭和52年の遺跡調査です。公園入口付近が若葉町遺跡に含まれることから、管理棟などの設置個所を事前に調査しました。その結果、土器片と胸から上が欠けた小型土偶、打製石斧など縄文時代中期から後期にかけての遺物が見つかりました。調査時は旧邸を拠点に使用させていただきましたが、そのうち、実篤愛蔵品と称する土器が旧邸にあることを知り、早速見せていただくと、まさに調査で検出された土器と同じ時期の土器でした。残念ながら出土地点などの情報が少なく、調査報告書には掲載できませんでしたが、こうした土器の破片を大切にしていた実篤先生、もしお元気なうちの調査であったら、私たちは質問攻めに遭うか、自らシャベルを持って発掘していたかもしれません。

さて、この実篤公園ですが、実篤氏がここに居を構えたのが昭和30年(1955年)、ちょうど調布市誕生の年でした。その10年後、昭和40年(1965年)の調布市市勢要覧への実篤氏の「調布市制施行10周年によせて」という寄稿文があり、ここを終の棲家とした理由や、転入当時は実篤邸の台地側には畑が、入間川沿いには田が広がっていたが、わずか10年の間に周辺の田畑が宅地へと急速に変貌した様子を困惑ぎみに表現しておられます。実際に、人口の推移で見ても、昭和30年が4万5千人、東京オリンピックの直前の昭和39年(1964年)に10万人、5年後の昭和44年(1969年)には15万人を超え、寄稿文のとおり調布市の急速な変化が見てとれます。

話は発掘調査の時に戻りますが、調査は7月後半、蚊や蜂に悩ませられながらの調査でした。しかし、合歓の木や桜などの大木の上を大型の蝶が飛び回る姿など、日を追うごとに様々な昆虫と出会うようになり、実篤公園の昆虫相の豊かさに感心した覚えがあります。実篤公園には段丘、崖線、低地、そして湧水と調布の地形の特徴がすべて備わり、そして実篤邸の建設以降、大きく手の加わることが少なかったことが、自然の豊かさを今日まで継承できている大切な要素だと思います。しかし、周辺では崖線の斜面まで開発が進み、鳥や蝶の目を借りれば、実篤公園の樹林は大きな面の一部だったものが、今では島状の貴重な樹林とみえているのではないでしょうか。実篤公園は実篤氏の旧邸というモニュメントとしての価値に加え、周辺の都市化が進めば進むほど公園の自然環境の貴重さが際立ってくると思います。こうした公園の一面も実篤先生からの贈り物だと思います。