調布市武者小路実篤記念館

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コラム泉

「コラム泉」は、実篤の思い出、実篤記念館の活動についてなど、
ゆかりの方々にご寄稿いただいたもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』30号 より2016年3月31日発行

武者小路実篤の文学者としての成長と、その兄とのかかわりについて
直木孝次郎
(大阪市立大学名誉教授・新しき村会員)

実篤は明治18年(1885年)5月に子爵武者小路実世と妻の秋子(なるこ)とのあいだに生れた。

実篤はこの2人から生れた8人の子女の末子で、戸籍上は四男だが、長子(男)と第五子までの5人は死産または夭折(ようせつ)して早く世を去り、無事に成人したのは、三女伊嘉子(いかこ)と第七子公共(きんとも)と第八子実篤の3人だけである。しかし姉の伊嘉子も、実篤が14歳の一八九九年明治32(1899)に病死し、実篤が青年に達したとき、きょうだいで残っていたのは、2歳年上の兄公共だけであった。兄と実篤との関係は、ふつうの兄弟以上に緊密であったと思われる。

兄弟は小学校から華族の子弟のかよう学習院にはいる。中学・高校での成績は二人とも良好で、クラスの上位を占めるが、兄公共は特別にすぐれていて、中学を卒業するときは一番であるだけでなく、特別優等賞を授けられた。

兄は学習院高等科を卒業したのち、東京帝国大学の法科大学(のちの法学部)に進むが、実篤は高等科卒業ののち、東京帝大の文科大学社会学科に入学する。しかし実篤は大学の講義に興味がもてず、退学して文学に専念する決心をする。しかしそれはそれで困難な道である。つまらない講義でも辛抱して大学を卒業すれば、それが資格となって生活の道がひらけるが、大学をやめて小説を書いても、それで暮せるかどうかは、わからない。

しかし彼の自伝『或る男』によれば、実篤は大学をやめたいと思ったとき、それを兄に直接には言いにくく、自分の考えを手紙に書いて兄に送った。兄は大学在学中に外交官試験に合格し、外交官の道を進んでいたが、翌日兄から電報がきた。驚いて読んでみると、

  ヨロシフンレエセヨアニキ(宜し、奮励せよ、兄貴)

とある、実篤はおどりあがってよろこび、兄に心から感謝した。そしてよい兄を持ったことを友人に自慢したいと思った。

翌日兄の手紙がきて、学校をやめる代りにやりたいことをしっかりやれ、とあった。その後も兄はつねに弟の成長を助けた。こうして実篤は小説に没入し、友人を語らって刊行した雑誌『白樺』の中心となって、力作をつぎつぎに発表した。『白樺』創刊の8年後の大正7年(1918年)に、彼は九州の日向(宮崎県)に「新しき村」を創設した時も、公共は賛成して、弟をはげまし、力づけた。

実篤と公共の関係は、その後もかわらなかった。昭和11年(1936年)、公共はドイツ大使となってベルリンに在勤した時、実篤をドイツに招き、ヨーロッパの各地の美術を見てまわる機会を与えた。また日本が1941年以後アメリカと戦ったとき、実篤は日本政府に協力したが、兄はそれは危いと見て、手を引くように忠告し、実篤はそれに従って政府の役職を辞退して、無事に無謀な戦時をすごすことができた。

兄公共は弟実篤にとって、なくてはならない人であった。