調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』1号 より2001年9月30日発行

『荒野』志賀直哉宛献呈本
明治四一年四月三日 警醒社書店(自費出版)

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『荒野』は、『白樺』創刊に先駆けること二年、武者小路実篤が満二二歳のときに出版した処女作品集です。小説五篇、論文七篇、新体詩七篇と、挿絵として西洋美術作品の図版が四点が収められています。

当時は無名の若者ですから、出版社が出したのではなく、自費出版でした。まだ海のものとも山のものとも知れない弟の本に、兄・きんとも公共はこころよく資金を出してくれたといいます。

刊行部数は記録がないためはっきりしませんが、志賀直哉と木下利玄に宛てた明治四一年三月三一日付けの葉書に、「表紙の紙は例の五百冊きりないさうだ。だからあとは他の色にした。」とあり、当館でも表紙の色が違うものを所蔵していることから、少なくとも五百冊以上刊行したことは確かなようです。

実篤はその前年、明治四〇年四月一四日から学習院時代の友人・志賀直哉、おおぎまちきんかず正親町公和、木下としはる利玄と四人で、自作を持ち寄り批評しあう勉強会〈十四日会〉を始めました。その中で雑誌創刊の気運が高まりますが、途中で実力不足を感じて中断し、替わって持ち上がったのが、この間に実篤が書きためた作品の単行本刊行でした。

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「本屋は志賀が周旋してくれた。校正は木下が見てくれた、(中略)正親町には字の組方その他で相談に乗ってもらった。」(「或る男」百十章)と記しているように、出版にかかわるさまざまな過程で〈十四日会〉メンバーの全面的な協力がありました。

中でもこの出版の推進役となったのが、志賀直哉です。この本に添えられた献辞が、まさにそれを物語っています。

「君ニ三度勸メラレタ御蔭デコノ本ハ出タ コノ本ガ出タ方ガヨカッタラ君ニ第一ニ感謝シナケレバナラナイ」

次頁、表題紙の上部には、もう一つ、次のようなフレーズが書き込まれています。

'One who loves the truth and you,and will tell the truth in spite of you.-Anonymous'

「真実と君を愛し、そして君をものともせずに真実を語る者」といったところでしょうか。実篤自身の目指すものと、互いの関係をうかがわせる、象徴的な言葉です。匿名、作者不詳、あるいは無名を意味するAnonymousは、実篤本人を示すと見てよいでしょう。

これとは別に、志賀の手元には『荒野』がもう一冊残されており、こちらには志賀による書き込みがあります。

「旅行中大阪梅田へ行って武者からの此書を受け取った。たしか、四十一年四月の五日か六日だ 或は四日だったかも知れぬ。

志賀直哉

仝年六月三日

(今日は不愉快な日ではない)」

独特の鋭い神経を持ち、そこに触れる多くのことに不快を感じる志賀の言葉として、この最後の一言は、大きな意味を持っています。

実篤自身は大正一二年に書いた「或る男」で、早くも「実際彼は「荒野」を出したことを恥ぢてゐる。」(百十章)としていて、昭和四七年に筑摩書房から刊行された明治文学全集第七六巻『初期白樺派文学集』に収録されるまで、長く再版を拒んできました。

確かにいろいろな意味において若さを感じる作品集ですが、序文に書かれた「自分が人間である」という姿勢がそのまま後の彼へとつながっていくように、実篤が文学者への道を歩む第一歩であったことに違いはありません。志賀直哉へのこの献呈本は、そこに生涯の親友がいかに関わったかを語る、貴重な一冊です。

(伊藤陽子 当館学芸員)