調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』2号 より2012年9月30日発行

「南瓜」(最初の油絵)
一九二七年九月二日
板・油彩 21.5×27.0cm

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この作品の裏面には、墨で「最初の油エ 二七・九・二 徳三郎兄」と書かれている事から、実篤自身が認める最初の油絵として、彼の画業を語る上で貴重な作品です。

若き日に西洋美術を見ることに夢中になり、『白樺』誌上で美術紹介や西洋近代美術の美術館設立運動をした実篤でしたが、自ら絵筆をとり始めたのは、大正時代末の四〇歳頃のことでした。

画を描くきっかけについて実篤は、『不二』大正一四年九月号の「画をかいて見て」の中で、「画がかきたいと思つたことは何度もあつたが、己を知る明があるのでやめてゐた。処が赤坊が出来てから赤坊の顔がかきたくなつてから、スケッチをやつて見たが、あまり似なさすぎるので、反つて不思議な気がして似るまでやつてやれと思つたが、いくらやつても似ない」と書いています。

長女・新子が生まれたのが大正一二年一二月、若いころ鏑木清方に師事し、本格的に画を学んだ安子夫人の存在も実篤に影響を与えたと考えられます。画を描きはじめた頃は、鉛筆や墨、淡彩で描いていましたが、それから数年が経ち、この油絵が描かれました。

この作品についてのエピソードは、特に伝えられておりませんが、作品を贈られた人物の「徳三郎兄」は、新しき村の会員で、大正八年に日向新しき村へ入村した斎藤徳三郎です。新しき村の会員は画を描く人も多く、この作品が描かれた年の昭和二年六月四日〜一〇日には、新宿の紀伊国屋書店を会場に「第一回新しき村美術展」が開催されています。現在残る写真には、会員の油彩画が展示されていることから、村の会員との交流から、この作品が描かれたとも考えられます。

さらに、昭和二年という年は、実篤にとり大きな転換期となる年でした。七年余りの日向新しき村の生活から離れ、志賀直哉の住む奈良を経て、昭和二年二月下旬に東京へ戻り、府下小岩村に転居しました。四月には「武者小路実篤編輯」と唱う雑誌『大調和』を春秋社より創刊し、新しき村東京支部の活動も活発となり、新しい生活に意欲的に取り組んでいる実篤の姿がうかがわれます。

また、同年一一月一五日〜二六日には、作品を一般公募する「大調和美術展覧会」を開催しました。この審査員には、岸田劉生、梅原龍三郎、高村光太郎の美術家のほか、実篤、志賀直哉、長与善郎、柳宗悦、佐藤春夫らの文学者も加わる珍しい構成となっています。この展覧会の開催は、春陽会を脱会して、画壇での立場が苦しかった岸田劉生の新たな活躍の場となるようにと、実篤の願いが込められていたとも言われています。

実篤は、さすがに「大調和美術展覧会」には出品していませんが、早くも昭和四年二月に開催された個展には、洋画一九点、日本画一七点を出品しており、短い期間に多くの作品を描いている様子がわかります。同年五月には、第四回国画会展覧会に「千家元麿氏の肖像」ほか二点が入選し、後に国画会の会友、同人となり、本格的な画業に進んでゆきます。

この作品は、南瓜の立体感もなく、べったりと油絵具が塗られている状態で、決して上手なものではありません。しかし、一筆の線から生まれる淡彩画と異なり、実篤が気に入った線や形が描けるまで何度でも油絵具を塗り重ね、描き込む油絵の楽しさを知ることができた最初の作品と言えます。

ふとしたことで画をかきはじめた実篤ですが、その後、熱心に描き続けることにより、独特の画風で多くの人が知る、膨大な数の作品が生まれました。

(当館学芸員 福島さとみ)