調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』5号 より2003年10月1日発行

トルストイ伝筆写ノート

このノートは、武者小路実篤が二十歳の時にドイツ語のトルストイ伝を写したもので、当時の強い傾倒を物語る資料です。

二冊に分かれていますが、近年まで、仙川の家に遺され、没後東京都近代文学博物館の所蔵となった前半の一冊だけが確認されていました。平成8年に実篤が仙川移住以前に暮らした井の頭の家から、後半のもう一冊が発見されて当館に寄贈され、その後、平成13年度末の都文博の閉館によって、二冊が当館にそろいました。

実篤は明治34年、16歳の時に自宅の敷地内にある長屋に寄宿する女学生"お貞さん"に恋をしたことで、初めて自身の内面と向き合います。そうして、まだ何をする実力もない自分に気づき、強い自負心との間で苦しみ、自身を高めようと本に親しむようになりました。

そうした日々を過ごすうち、明治36年の夏、毎年の恒例で避暑に訪れた三浦半島金田に住む母方の叔父・かでのこうじすけこと勘解由小路資承のもとで、実篤はトルストイの『我懺悔』『我宗教』を読み、急速に傾倒していきます。以後、手に入るかぎりのトルストイの著作を片端から読み、その熱中ぶりは、「何かに片仮名でトとかいてあるのを見ると顔がほてるのをおぼえた。」(「或る男」)というほどでした。

実篤は学習院中等学科・高等学科を通じてドイツ語のクラスでしたが、語学力はないと自認していました。その実篤がドイツ語で書かれた本を一冊まるまる写したことからも、トルストイに惹かれる思いの強さがわかります。

明治39年3月23日、日記に「トルストイの伝記の全体を写す決心をせり。出来るか、出来ないかはお楽しみ。」(『彼の青年時代』大正12年2月 叢文閣)と記して、筆写を始めました。その後も刻々と進行を、時に感想を添えて、日記に記しています。

ノートにも、その日写した最後のところに日付が書かれていますが、日記とつきあわせてみると、片方にあってもう一方にない日が双方にあり、どちらもすべてを記録しているわけではないようです。それぞれを照合してみると、写した量は日によってまちまちながら、病気で休んだ4月2〜3日と、鵠沼方面へ出かけた4月6日〜9日、赤城へ旅行した4月24日〜29日を除いて、ほぼ毎日筆写していき、5月10日に無事写し終えています。

途中4月15日の日記には、「トルストイの伝を八の終り迄写した。もうそれで一冊にすることにした。」と書かれており、確かに、一冊目の目次は8まで、二冊目は9からになっています。

原本となったDr.Erich Berneker,Graf Leo Tolstoi(R.Voiatlanders Velrag,Leipzig,1901)は、明治37年まで院長を務めた近衛篤麿が学習院に寄贈したものでした。学習院大学図書館に現存する原本と筆写とをつきあわせてみると、表題紙に至っては文字の配列まで同じで、巻末の参考文献までそろっています。ノートの左右の余白には、日付のほかに、気になるセンテンスの訳や、おぼえ書き、参照すべき作品らしき註なども書き込まれ、徹底的に写し且つ読み込んだことが読み取れます。

その後、実篤が東京を離れて我孫子、宮崎と移り、その間に実家が震災で焼失し、奈良、そして東京に戻ってからも転々と住まいを替えた中で、このノートは失われることなく終の住み処まで旅を共にしました。

前述4月15日の日記に続けて書かれた「母にとぢてもらつた」という絹糸の束は、百年近くたった今も鮮やかな緑色を保っています。

(伊藤陽子 当館学芸員)