調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』7号 より2004年10月1日発行

「ある青年の夢」原稿

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「ある青年の夢」は、大正5年に『白樺』3・4・6・8・10・11月号に連載された戯曲作品です。翌大正6年1月には洛陽堂から〈白樺叢書〉の一冊として単行本が出版されています。

物語は、主人公である一人の青年が、見知らぬ者に導かれて、戦争をめぐる様々な人と場面に行きあう夢を見る、というものです。戦死者たちの平和大会、不思議な乞食と夫を失った女、息子を失った画家と息子を徴用される村長、上級生と下級生の喧嘩が思いもよらない悲劇に発展するさま、歪んだ愛国心によって国と国とが争いへと落ちてゆく芝居。これらを見る中で、悩み思索を深める青年の姿を通して、戦争の不条理と非人間性を描いています。

執筆当時、日本は第一次世界大戦に参戦しており、実篤はこれに対して反戦を訴えようとこの作品を書きました。

戦争中に真っ向から反戦を主張する作品を発表すれば、国や軍から危険視される可能性が高いことは言うまでもありません。実篤もそれは危惧していたようです。原稿を見ると、例えば、第一幕の戦死者による平和大会の場面では、「・・・・・国家主義の殉難者」を「あるものの」、「・・・日本の士官」「・・日本人」を「ある国の」と書き改め、自国・他国ともに批判する際には国名を頭文字に直すなど、表現に神経を使っている様子がうかがわれます。

しかし、当時の日本では、戦場は遠いヨーロッパで直接戦災にあうことはなく、むしろ軍需で未曾有の好景気を迎えていたので、戦争を批判する声は上がりませんでした。そのため、この作品は注目されず、「世間的には反響な」く(「或る男」189章)、「人々に戦争への反省を与え」る(同前)ことは出来ませんでした。しかしそのためにかえって「平穏無事にかきたいことをかき、又発表することが出来」ました(同前)。

むしろ、海外からの反響の方が大きく、隣国・中国では魯迅が訳し多くの青年に読まれ、また実際には出版されなかったようですが、英訳や(『武者小路実篤選集』第四冊 序 大正12年1月 新潮社)、仏訳されてロマン・ロランが序文を書くという話があったといいます(千家元麿より実篤宛葉書 大正8年6月27日)。

原稿が現存するのは、序から第四章までのうち第三章までで、第四章は失われています。400字詰めにペン書きで269枚が、序、第一幕、第二幕、第三幕第一場〜第二場、第三幕第三場と、連載一回ごとにこよりで袋とじにされていました。

この原稿は、昭和60年10月に当館が開館した際に、志賀直哉のご遺族より寄贈されたものです。

作品を執筆中だった大正5年の8月に、実篤は結核と診断され、すぐに誤診と分かりますが、これを機に白樺同人の柳宗悦と志賀直哉が住む千葉県我孫子の手賀沼畔に転居しました。そして大正7年9月に、ここから新しき村創設に旅立つのですが、残していく家の管理と家財の整理を志賀に託しています。

この原稿が、どのような経緯で、いつから志賀の手元にあったのか、確かな記録はありませんが、この時から志賀が管理してきたとも考えられます。

以来六十年余を経て、昭和59年に日本近代文学館が開催した「武者小路實篤と白樺美術展」で再び世に出た時には、木箱に入り、布貼りの帙に納められていたばかりでなく、一枚一枚全て裏打ちを施され、用紙の折り山や四隅の傷みが補修されていました。

この原稿は、数少ない白樺発表作品の原稿としてだけでなく、二人の友情を知る上でも、貴重な資料です。

(伊藤陽子 当事業団主任学芸員)