調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』9号 より2012年9月30日発行

「一人の男」原稿

武者小路実篤には「或る男」と「一人の男」という二つの"自伝小説"があります。そのうち大正7年に新しき村を創設した30代半ばから、執筆当時の85歳までの後半生を書いたものが「一人の男」です。

宮崎の新しき村での生活、離婚・結婚と子供たちの成長、時代思潮のリーダーから失業時代への急転、生涯でただ一度の欧米旅行、埼玉の新しき村開設、第二次世界大戦を巡る体験、主宰雑誌『心』にかける意欲、子・孫十五人の生活から夫婦二人で暮らす終の住み処へ、新しき村50周年を迎える感慨、そして85歳を迎えてなお尽きないこれからの展望と期待などが、時間軸に沿って書きつづられています。

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"自伝"といわれ、また実篤の率直な文体に接すると、つい全て包み隠さず虚構を交えずに書かれていると思ってしまいがちです。しかし、実篤は「一人の男」の執筆について、「自分が経験してきた事を、なるべく事実に忠実に書きたい」という一方で、「但し僕はここで告白をしようとは思わない」「自分の秘密には触れたくない」(いずれも「一人の男」一章)ともいい、あくまでも主観に従って書こうとしています。この作品を読むときには、単なる記録ではなく、"小説"の要素を含んでいる可能性に注意を払う必要があります。

「一人の男」は、昭和42年1月から45年12月にかけて『新潮』に連載されました。開始時、実篤は81歳でしたが、自伝を書く人は書き上げない内に死ぬ人が多いという記事を見かけ、「それを読むと僕の例の癖が出て、それなら一つ書いてやろうかという気になった」(「一人の男」一章)といいます。実際には、四年間で休載したのは昭和45年の3・4・8月の三回だけで、四十五回の連載を無事連載終了の翌年、昭和46年8〜9月に上下二巻で単行本が刊行されました。特装版と並装版があり、いずれも装幀は白樺時代からの旧友である洋画家・梅原龍三郎が手がけ、その原画も当館が所蔵しています。

原稿は実篤の手元に戻り、死後その大半が他の文学資料とともに東京都へ寄贈され、当館が所蔵していたのは、後から発見された昭和42年2〜12月号と43年1〜3月号掲載分だけでした。これが平成13年度末の東京都近代文学博物館の閉館によって当館へ移り、再び一つにまとまりました。

欠落なく全て揃っていて、総計一、四九四枚に及びます。おおむね掲載ごとに束になっており、これを見ていくと一回の枚数が、最少で二十一枚、最大で五十枚とまちまちです。このころの実篤は誰もが認める文化界の長老となっており、自由に書かせて貰えた事がうかがわれます。

実篤は、その六十年余に亘る文学活動を見渡しても長編は少なく、四年にも及ぶ連載はこの一作しかありません。しかも、昭和30年代以降は創作は少なくなり随筆や詩が中心となっていった中で書いたものです。「一人の男」は、70歳で"仙川の家"に移り住む動機となった、自らの人生と仕事の完成という願いの結実と言えるでしょう。

(伊藤陽子 当事業団主任学芸員)