調布市武者小路実篤記念館

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所蔵資料から

「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』12号 より2007年3月31日発行

木喰作「薬師如来坐像」
木彫
(総高)72・0cm

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この像は、武者小路実篤のコレクションとして長く愛蔵された作品のひとつです。頭部から台座、光背まで一木で彫られ、木心は背によけて、内刳りは施していません。力強いノミの切れの良さとともに、表面は細かなノミ痕を残した箇所もあり、背面は大きなノミで大胆に彫り出されています。木の干割れや虫損も多く見られますが、光背には梵字が墨で書かれ、背面には梵字とともに「木食 八十四才」との銘も見ることができ、当初の姿を伝える比較的状態が良い仏像です。

その表情は、ほほ笑みを浮かべ、丸い円光の光背も一体で彫りだした造形と銘から、作者は18世紀後半から19世紀初めに活躍した、木喰明満の作であることが判ります。木喰とは、肉食だけでなく、穀物を絶ち、一切火の通したものを食べず、木の実や野菜だけで苦行する僧侶の称ですが、木喰明満は45歳の時に「木食戒」を受け、生涯守り続けました。仏像を彫る木喰といえば、この明満のことを指しています。

木喰は山梨県古関村丸畑の出身で、56歳から全国を遊行し、各地で仏像を彫りました。木の生命や神木などの神秘的な面も大切にして一木から造り、その多くの像は慈悲深く、微笑を讚えていることで広く知られています。この像は、木喰が日本迴国を果たして出身地に帰り、享和元年(1801年)に制作された「四国堂八十八体仏」のひとつであり、彼の作品の中でも、充実した時期の優れたものです。しかし、四国堂仏は、大正8年(1919年)に作品が売りに出され、各地に散逸してしまい、現在では半数近くの所在の確認ができていません。

白樺同人であり、民藝運動で活躍した柳宗悦は、木喰の研究でも知られています。柳は大正13年(1924年)に四国堂の木喰像を美術収集家の倉庫で初めて見て魅了され、大正15年初めまで、調査、蒐集、研究に没頭しました。この四国堂の作品が散逸するのを惜しんで集められた作品は、現在、日本民藝館に「地蔵菩薩像」「千手千眼観音像」が他の作品とともに収蔵されています。志賀直哉も柳に勧められて入手したといわれる四国堂の「薬師如来坐像」を愛蔵しており、木喰仏は、白樺同人の共通した美意識を感じられる仏像とも言えます。

実篤が入手した経緯は明らかではありませんが、「柳がさわぐより前から持っていたんだ」と自慢して、応接間の一隅に置いていたとのことで、大正8年の四国堂仏が売却されて間もなくの頃に入手したものだと考えられます。ちょうどその頃、大正10年前後から、自身で美術品を熱心に求めはじめており、この像は彼のコレクションでも最初の頃のものとなります。

実篤は自身が面白いと感じたものを、身近に置き、作者の心情を感じることを楽しみとしていました。この「薬師如来坐像」は、いつも近くにいて明るく微笑む、慈悲深い姿から、厳しい状況であってもそれをバネとして前向きに考え、行動する実篤の心を後押ししていた存在だったかもしれません。

(当事業団首席学芸員 福島さとみ)