「所蔵資料から」は、実篤記念館で所蔵する作品や資料の解説、
実篤にまつわるエピソードなどをご紹介する記事で、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。
*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。
『気まぐれ日記』は、大正12年5月6日〜13年8月22日、実篤37歳〜39歳の日記です。大正15年12月に新潮社から刊行しました。
自ら全集の日記の巻に「日記は滅多につけない。こゝにのせたのが僕のつけた日記の全部である。」(新潮社版全集第22巻 後書き)と書いている通り、実篤は限られた期間しか日記をつけていません。
ここに挙っているのは、『彼の青年時代』(大正12年2月叢文閣)、『気まぐれ日記』、『稲住日記』(昭和22年1月 向日書館)で、ほかに昭和11年に欧米を旅行したときの『欧米旅行日記』(昭和16年3月 河出書房)があります。こうして見ると、つけた日記はすべて公刊していることがわかります。
これら日記のうち、原本が公に確認されているのは、「気まぐれ日記」だけです。
「気まぐれ日記」を書いた頃、実篤は日向の新しき村で会員たちとともに暮らしていました。
新しき村は大正7年の創立から5〜6年目となり、運営が軌道に乗りはじめ、水路建設などが次々と計画・実行される一方、大雨による食糧不足など様々な問題も起きてきます。実篤個人にとっても、離婚と再婚、子どもの誕生と、身辺に大きな変化がありました。「気まぐれ日記」には、その様子とそれに関わる心情が主観的に書かれています。
日記は、本来私的な記録で、人に見せることを意識して書くものではありません。だからこそ、初めて得る子どもに夢中になる親馬鹿ぶりや、創作に悩む姿など、素顔を知ることが出来ますが、公開に向かない面もあります。
原本を見ると、出版に際して、実篤は、他人への感情的な批判や自己中心的な表現、親しい人に対する否定的な批評、根拠があいまいな箇所などに削除の指示を入れ、人名は多くをイニシャルに変えています。そこからは実篤のモラルが感じられます。
また原本は、大半は万年筆で書かれていますが、インクの色はたびたび変わり、毛筆で書かれた所もあります。実篤は、日向の新しき村で暮らした時期、東京との行き来などでしばしば旅をしています。こうした中で書き継がれ、その時々に手に入る筆記具を使ったことがうかがわれます。
この原本は、人目の届く所にありながら、永く埋もれていました。
この日記を書き始めた大正12年の6月、芸術社から最初の実篤全集の刊行が始まりました。出版の際、前もって本の姿を確認するために、本文は白紙でつかみほん束見本を作ります。「気まぐれ日記」は、この束見本に書かれていたために、外見が芸術社版『武者小路実篤全集』にそっくりで、本棚に並んだまま、誰にも気づかれることなく年月を過ごしてきたのです。10年ほど前に、"牟礼の家"を整理したときに、偶然発見されました。
「気まぐれ日記」の原本は、70年の沈黙を破って、活字からは伝わらない様々な情報を、私たちに伝えてくれます。
(伊藤陽子 当事業団主任学芸員)
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