調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』9号 より2005年12月27日発行

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小説「お目出たき人」

実篤の文学活動開始宣言

「おめでたい」を『広辞苑』で引くと、「おひとよし・馬鹿正直・世間知らず」と出ています。このような意味を含んだタイトルをもつ「お目出たき人」は、実篤の個性が鮮やかにあらわれた小説です。実篤が満二十五歳の時、一九一一(明治四四)年二月に発表されました。書き上げたのは発表の一年前である一九一〇年二月で、仲間と同人雑誌『白樺』を創刊したのが同年四月ですから、この作品は彼の文学活動開始宣言ともいえます。最初の自費出版の単行本『荒野』は「お目出たき人」執筆の二年前に発表されていますが、二年のあいだに彼の文学は大きく方向を変えました。実篤は『荒野』の再版や全集収録をずっと認めなかったのですが、それは、その後の彼の世界観が、社会正義を目指した、息苦しいほどに生真面目な『荒野』の世界から大きく遠ざかってしまったからでしょう。

主人公は夢想家か、それともリアリストか?
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『お目出たき人』口絵
クリンゲルのエッチング集
『インテルメチー』序画

「お目出たき人」は不思議な小説です。「これは失恋小説なのか?」、「主人公は夢想家なのか、リアリストなのか?」など、読み進めるにしたがって浮かび上がる疑問を、一読しただけでは解くことはできません。ストーリー自体は単純です。二十代半ばの男(自分)が近所に住んでいた女学生(鶴)を見初めて、言葉を交わすことも無いまま求婚します。「自分」が三度目の求婚を断られてから約半年後、女学校を卒業した「鶴」は他の男と結婚するというものです。あらすじからいえば完全な失恋小説ですし、それぞれの場面で確かに「自分」は嘆き悲しむのですが、いくら求婚を拒まれても最終的には「鶴」と本当は愛し合っているのだと信じて、何度でも絶望から立ち上がる「自分」のありかたが、所謂失恋小説とは大きく異なります。とはいっても、「自分」をプラトニック・ラブの恋愛観をもった夢想家とも言い切れません。「鶴」の下校時間に帰り道のあたりをうろつくという、ストーカーめいた行動をとる「自分」は、「女に飢えてゐる」という言葉を繰り返し、手淫の習慣さえ告白します。「自分」は若い男性の肉体とそれにまつわる悩みも確かにもった人物なのです。

日記のような小説に仕組まれた虚構

この小説は、「自分」が主人公となって、主観的な内容をどんどん語っていくというスタイルで書かれています。また、日付や、画家の名前など数多くの固有名詞が作品中に登場し、日記のようなリアリティーを感じさせる作品です。そのため、おそらく多くの読者はこの小説には虚構など存在せず、実篤自身の体験が直接描かれていると思うでしょう。しかし実篤が自伝小説「或る男」で自ら書くとおり、「お目出たき人」にはいろいろな虚構が組み込まれています。

現実よりも「自然」の命令に従う主人公

実篤自身の当時の恋愛をモデルにこの小説は書かれていますが、実篤が求婚していた相手は当時まだ結婚していません。にもかかわらず、結末で「鶴」を結婚させたのはなぜでしょうか。ヒントになるのは次の部分です。「自分」は三度目の求婚に失敗したあと、「何時の間にか自分と鶴は夫婦になるやうな気にな」るのですが、その理由を次のように考察しています。

〔略〕自然の命令、自然の深い神秘な黙示があるのではないかと思ふ。この黙示は/『汝、彼女と結婚せよ、汝の仕事は彼女によつて最大の助手を得ん。さうして汝等の子孫には自然の寵児が生れるであらう』/と云ふのだ。

「自分」は「鶴」の結婚を知り、さらに友人からその結婚の幸福なことを知り、絶望に沈みます。しかしその後、「鶴」は恋してくれていたのだが親の意向で結婚しただけだと、根拠もなく空想するようになる、これが「お目出たき人」の結末です。根拠もなくと書きましたが、実は作品中に根拠は示されていました。それは「自分」が「自然の深い神秘な黙示」を信じているからです。「鶴」が結婚してしまった後でも、「自分」が「鶴」を諦めないことは、「自分」が現実よりも自然の命令を尊重し、自然を信じていることの証明となるのです。

実篤の人生観を伝えようとした「お目出たき人」

「お目出たき人」は、女性や性についての率直な思いと、恋愛の破局をいつまでも受け入れられない内面とを、日記のような書き方で馬鹿正直に(おめでたく) 表現しているように見せながら、実は「現実や常識にとらわれず、自然のままに大らかに生きるべきだ」という、実篤が考える人生観を伝えるために書かれた小説だと読むことができます。現実や常識よりも、無意識に感じるインスピレーションや自然に従おうとする「自分」。もしも読者がこのような「自分」を現実的な存在として受け止めるならば、作者の目的は達せられるといえるでしょう。

(瀧田浩 二松学舎大学専任講師)