調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』17号 より2009年9月30日発行

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伝記小説「井原西鶴」

実篤の「失業時代」

「井原西鶴」は、一九三一(昭和六)年六月二十四日〜八月一日まで、『時事新報』に連載されました。実篤は満四十六歳。新しき村を離れて、五年以上が経っています。文壇の流行はプロレタリア文学に傾き、商業雑誌から実篤への原稿依頼はほとんど無くなり、原稿を持ち込んでも採用されない状態でした。大津山国夫は小学館版『武者小路実篤全集 第九巻』の解説の中で、当時、流行作家のあかしであった『中央公論』『改造』への執筆がなかったことなどをふまえ、一九二九(昭和四)年から一九三二(昭和七)年までの四年間を、実篤自身がしばしば書く「失業時代」の中心としています。彼は、古今東西の人物の伝記を数多く書いて、(自分の家族と新しき村の人たちの)生活をやりくりしていました。「井原西鶴」はまさに「失業時代」に書かれた作品です。

四十代の西鶴を描いた伝記小説

三十三回の新聞連載小説「井原西鶴」は、二度目の単行本になる時に二十八章に直されました。直された章にしたがい、内容を示します。一章〜八章が「好色一代男」、九章〜十二章が二万三千五百句を一日一夜で読んだ矢数俳諧、十三章〜十八章が近松門左衛門と竹本義太夫に対する対抗心と和解、十九章〜二十一章が「好色五人女」や「本朝二十不孝」などその後の作品、二十二章が松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」に対する賛嘆、二十三章が西鶴のその後の作品や俳諧、二十四章が西鶴人気のかげり、二十五章が百八十歳にもなる「今浦島」が池の中に飛び込んで消滅したエピソード、二十六章がライバルである伴天連高政に不人気ぶりを指弾される夢、二十七章が西鶴の落ち着いた仕事ぶり、最後の二十八章では辞世の句の心境が述べられます。物語は、西鶴が満四十歳の時に刊行した「好色一代男」から始まり、満五十一歳の年に亡くなるまで、つまり西鶴の四十代を描いたものです。

周囲の評判にとらわれる西鶴

「井原西鶴」のテーマのひとつは、ライバルの文学者、読者、出版元など、まわりの評判を西鶴がいかに超越するかにあります。元禄時代は、小説(浮世草子)の井原西鶴、俳句の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門が同時代に活躍していた時代でした。芭蕉は西鶴より二歳年少、近松は十一歳年少です。芭蕉や近松に追われる西鶴の内面が「井原西鶴」の基盤です。彼が二万句の矢数俳諧に挑戦するのも、浄瑠璃執筆に情熱を燃やすのも、高政や近松などのライバル、そして近松の浄瑠璃を見た観客たちの評判に刺激されたからです。その後だんだんと西鶴はまわりの評判を気にしないようになるものの、二十四章では自分に対する悪口に対して手ひどく攻撃しています。実篤は、ようやく二十七章にいたり、「今の彼にはたゞ落ちつき切つて仕事をするだけだつた。死んだあと恥かしくない仕事をそつとしておきたいと思ふだけだつた。否、それさへ考へず、習慣で一心にかくだけだつた」という心境に西鶴をたどり着かせました。実篤は、西鶴に不動の心境をなかなか与えようとはしませんでした。

現実認識の上にともされる火
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「井原西鶴」が二度目の単行本になった時、「伝記小説に就て」という断片集が巻末に付けられました。その中には、「人間は自分の内に自分相当の鏡をもち、それにうつるだけより他人を理解できない」という文が含まれています。この文がしめすように、西鶴には、失業時代の実篤の内面が投影されています。「私はおいぼれたと云ふ噂があるさうだが、この西鶴はさう簡単に老ぼれないよ。まだまだ俺の内には火がある。たゞこの頃本屋の奴がたのんで来なくなつた」という西鶴の台詞がありますが、同じ内容のエッセイを「井原西鶴」執筆の四ヶ月ほど前に実篤は書いています。

(略)僕が改造や中央公論のやうな商売雑誌に原稿を出さないからと云つて老ぼれたとは
思はれたくない。向ふが出してくれないだけで僕の内の火は依然として燃えてゐる(「三段
雑記」。『星雲』一九三一[昭和六]年二月)。

二度目の単行本になった時、「西鶴のことを一寸」という文章も付けられたのですが、その中で実篤は「三人(西鶴・芭蕉・近松の三人のこと―瀧田注)の内彼が一番、現実的だった」と書いています。人道主義・理想主義を掲げた実篤が新しき村を離れ、経済的困難に見舞われ、手にした苦い現実。四十代半ばを越えた実篤が燃やす火は、欲望とあきらめが混ざり合った現実を知った上でともされた火であったはずです。現世の欲望を表現した西鶴と、理想主義の文学者である実篤は、中年期を迎えて知るようになった苦い現実認識を仲立ちとして深いつながりを持ったといえるでしょう。

(二松学舎大学・准教授 瀧田浩)