調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』19号 より2010年9月30日発行

美術評論「ゴオホの二面」

ゴッホがあたえたインスピレーション

実篤は「ゴオホの二面」を書く前年に「バン、ゴォホ」という詩を発表しています。

バン、ゴォホよ/燃えるが如き意力もつ汝よ/汝を想ふ毎に/我に力わく/高き
にのぼらんとする力わく、/ゆきつくす処までゆく力わく、/あゝ、/ゆきつくす
処までゆく力わく。

美術評論家の匠秀夫は、雑誌『白樺』には五十九編のゴッホ関連文献と七十五点の図版が掲載されたとし、日本のゴッホ受容における『白樺』の重要性を指摘していますが、実篤は『白樺』同人の中でも、とりわけ強くゴッホに共感を示しています。ゴッホの絵に触れてからの実篤は、ゴッホが理想の芸術家になりました。匠は、実篤のこの詩が画家ゴッホのインスピレーションによってうまれた、世界で最初の文学作品だと説明しています。文学者である実篤はどうして画家ゴッホにこれほど早く文学的表現で反応したのでしょうか。

「ゴオホの一面」から「ゴオホの二面」へ
image
ゴッホ「向日葵」
(白樺美術館のために購入)
昭和20(1945)年焼失

「ゴオホの二面」が最初に発表されたのは、『白樺』一九一二(大正元)年一一月ですが、その時は「ゴオホの一面」という題でした。書き改められた「ゴオホの二面」という題は、当時の実篤の内面をよく物語っています。『白樺』を舞台に旺盛な執筆活動を続けた実篤の基本にあったのは、「社会」や「他人」のために尽くすことと、「自分」の個性や能力を生かすこととの葛藤と苦悩でした。正反対に向かう「二つの心」(この題の戯曲があります)に引き裂かれ、苦悩しながら、ゴッホなどを導き手として、実篤は二つの心のバランスの取り方を心得るようになり、さらに、せめぎあう心理の表現は小説家・戯曲家としての実篤の武器となっていきます。「ゴオホの二面」は、画家ゴッホを通して、実篤の「二つの心」をめぐる思索を表現するものです。

真剣な芸術に統一される二つの心

「ゴオホの二面」から、実篤のゴッホ理解がうかがえる部分を引用しましょう。

二つの慾求、憐な人を救ひたい慾求と、自己表現の慾求とは、彼にはいたましきまでに
もつれあつた。彼の優しい心は憐な他人を救ふ為に彼に犠牲を強いた。彼の強い心は彼を
かつて誰も敢てふみ入らなかつた境に逐ひやり、誰もなし得なかつた大なる調和、美、愛
を体現せんとすることを強いた。

実篤にとってのゴッホは、実篤以上に二つの心に引き裂かれた芸術家でした。その葛藤と苦悩の強さは、ゴッホの純粋で真剣な絵そのもの、発狂、自殺によって表現されていると実篤は考えます。興味深いのは、画家ゴッホと文豪トルストイを比較する部分です。トルストイこそは実篤に「社会」「他人」に向かう必要性を教えた存在ですが、「ゴオホの二面」の中ではトルストイは「社会」「他人」に向かう心の下に「自分」を生かそうとする心を置き、ゴッホは逆だとされています。「ゴオホは画家になることによつて、自己の内の『愛』も『良心』も満足させやうとしたのだ。(略)彼はこの道をふむことによつてのみ、自己の内にある二つの慾求を勇ましく満たすことが出来ると思つたのだ」。実篤はトルストイに背を向け、ゴッホにならって、二つの心を「自分」を生かす方向に統一し、芸術家として極限まで進もうとしているのです。

「絵画の約束」の向こう側

実篤は「ゴオホの二面」を書く一年ほど前から、木下杢太郎と「絵画の約束」をめぐる論争をします。実篤の友人である画家山脇信徳の絵について、いかにみずから表現したくとも、鑑賞者が理解できないままではいけない、画家は絵画の歴史と鑑賞者の理解をふまえた表現をするべきだと、木下は主張します。「絵画の約束」とは画家と鑑賞者の共通理解ほどの意味と考えればよいでしょう。木下が新進の画家に「絵画の約束」を尊ぶようにうながすのに対し、実篤は正反対の態度をとりました。すでにゴッホの絵に影響を受けて、極限まで「自己」の個性を燃やし尽くそうとしていた実篤にとって、「絵画の約束」は決して受け容れることができないものでした。彼の先行者ゴッホは、無理解に耐えながら絵を描き続け、発狂し、自殺し、死後ようやく評価を得るにいたった画家でした。

しかし、実篤の芸術観を理解する上で重要なことは、彼は単純に個性的で自由な表現を求めたのではないということです。彼は読者や批評家をふりかえることなく文章を書き綴ろうとするのですが、彼には純粋で真剣な芸術に徹することによって、いつか「社会」と「他人」に意味あるものとして伝わっていくはずであるという信念があったのです。

(二松学舎大学・准教授 瀧田浩)