調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』21号 より2011年9月30日発行

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震災と実篤

関東大震災と実篤

今回の「作品鑑賞」では、一つの作品ではなく、一九二三年の関東大震災時の武者小路実篤に焦点を当てます。関東大震災は、東日本大震災の五倍以上の被害者をだした歴史的な大事件でした。実篤は、新しき村を始めて六年目の三十八歳。震災の中で彼がどのようなメッセージを発したかを見てみたいと思います。

実篤の転換期

関東大震災が起きたこの一年、実篤には震災以外にも大きな変化がありました。六月には、『白樺』同人で親交のあった有島武郎の心中と、実篤最初の全集の刊行がありましたし、八月になると、実篤の離婚・再婚問題が新聞で盛んに報道されます。そして九月一日、震災で『白樺』は廃刊。親交のあった無政府主義者大杉栄も震災の混乱の中で殺されます。十二月には新しい妻安子が実篤にとって初めての子どもを出産します。この年は実篤にとって、震災の年であり、『白樺』から巣立つ年であり、親しい友を失う年であり、父になる年だったのです。

震災直後の実篤
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河野通勢「麹町・武者小路邸焼け跡の図」
エッチング・大正12(1923)年9月12日頃

実篤は関東大震災の頃、『気まぐれ日記』と題する日記をつけていました。実篤が晩年に書いた自伝小説『一人の男』の中では、この日記を紹介しながら、後年の回想を加えています。大地震直後の時期は日記が書かれていないので、そのあいだの経過を『一人の男』の記述によって、たどってみましょう。

病的なほどに地震を恐れる母を心配した実篤は地震の知らせを受けてすぐ新しき村を飛び出し、志賀直哉のいる京都に着き、母親の無事と避難場所を知ります。東京に入る許可証を大阪で苦心して取ったあと、瀧井孝作と一緒に大変な汽車の旅をしてようやく東京にたどりつき、避難先の母と再会を果たします。武者小路家の過去帳や蔵にあった先祖のものなど全てが焼けましたが、実篤は「僕はたいして惜しい気はしなかった。この大震災はもっと恐ろしい結果を人々に与えていたから、家が焼けたことぐらいに未練を持つには現実がひどすぎた」と『一人の男』に書いています。彼が宮崎の新しき村に帰ったのは十月三十一日でした。

新しき村への変わらぬ思い

結婚問題を新聞でさんざん叩かれても、親しい友を失っても、実篤の信念が揺らがなかったように、震災に直面しても、彼の楽天主義と新しき村にかける思いは変わりませんでした。十月四日の日記には「今度の大地震を天罰なぞと云ふ人間がある。あまり人間が浮薄になり、奢侈になつたからと云ふのだ。(略)神様はそんな気の小さいものではない」と書き、十一月三日には「子供の名は/女なら、新子、篤子/男なら、篤秋、厚秋/にきめることにした。子供は村で育てたい。そして独立出来る、村の一人前の男女にしたい」と書いています。結局、子どもの名前は新子になりました。新子の「新」は新しき村の「新」でしょう。

秋に寄りそう心

実篤は、大地震からひと月あまり経った十月九日に、元禄の頃を舞台とした短編戯曲「秋の曲」を書きあげます。道楽もしてきた美男の武士市之丞に好意を寄せる娘に対し、父は自分の絵の弟子である多之介と結婚することを願うものの、最終的には娘の気持ちを理解します。娘を深く愛していた多之介も、川に落ちたところを市之丞に助けられ、市之丞と娘の結婚を祝福するというハッピーエンドの作品です。震災後の混乱とは一見無縁に見える太平の世の恋愛話を、実篤はなぜこの時書いたのでしょうか。そしてタイトルになにか意味はあるのでしょうか。

戯曲の前半で、娘は多之介に、勇ましい若者に死神が負けて帰る画を描くように頼み、最後の場面で多之介はこの画の完成を誓います。多之介の最後の台詞と父の最後の台詞を紹介します。「生きてゐられると云ふことはそれだけで本当にうれしいことです」(多之介)。「多之介の生れかへつたお祝ひでもしませう。(略) 皆生れ返つて、元気になるとしませうね。さあ、早くうちへ行かう」(父)。「秋の曲」には、震災のなかにいる人たちに、死の影を払拭して、力強く生や愛の肯定に向かってほしいというメッセージがこめられています。

戯曲が書き上げられる一週間前の日記には、「秋風が吹いて来て自分の身体に優しくふれていつた。(略)生きてゐることが何となく嬉しい気持にしてくれた。わるくない、夢でない、気がした。自然と同化した時のやうな、秋の静かなすんだ気持がした」とあります。震災後ひと月経って、実篤に訪れた秋。実篤は、復興へ向かうための応援をする一方、身と心を優しく癒す自然に思いを寄せています。子どもの名前の候補「篤秋」「厚秋」の「秋」、「秋の曲」の「秋」には、時に人に暴威を振るい、時に人を優しく包み込む自然に対する、実篤の変わらぬ信頼の気持ちが込められているようです。

(二松学舎大学・准教授 瀧田浩)