調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』22号 より2012年3月31日発行

戯曲「その妹」

シス・カンパニーによる上演

二〇一一年十二月二日から二六日まで、シス・カンパニーによって(演出は河原雅彦)、武者小路実篤の戯曲「その妹」が上演されました(於・シアタートラム)。盲目ながら文学者をめざす「野村広次」が市川亀治郎、広次を支える美しい妹「静子」が蒼井優、兄妹を精神的・物質的に支える文学者「西島」が段田安則です。今をときめく俳優による舞台は人気を集め、チケットはすぐ売り切れました。亀治郎の歌舞伎的な表現がつくりだすコミカルさ、蒼井の才気が生み出す強靱な女性像、段田の確かな理解による骨太な演技。「その妹」はこれまで劇団民藝などによって何度も舞台に上った、実篤作品の中で最も大衆に受け入れられた戯曲ですが、これまでにない、現代的な表現が生まれました。

第一次世界大戦時の非戦作品

「その妹」は、画家としての活躍を目前に戦争に召集され、失明した広次が画家の道をあきらめ、静子の助けを受け口述筆記によって文学者としての道を切り開こうとするものの、挫折して終わる悲劇です。雑誌『白樺』に発表されたのが一九一五(大正四)年三月。第一次世界大戦は前年から始まっており、数少ない第一次大戦時における非戦文学ですが、おそらく非戦的な部分に気づかない読者の方が多いでしょう(今回の公演でも、非戦のメッセージは特に打ち出されていませんでした)。もちろん、ていねいに読めば、広次が静子に口述筆記させている一節に「私は戦争へゆきました。私は大の非戦論者でした。人を殺すことは嫌いな男です。又人に殺されることはこの上なく嫌いな男です。私は国家が戦争をしたことにも不服だつたのです」などの台詞があり、非戦の思いを読み取れる部分は少なくありません(引用箇所はのちに検閲され、削除されています)。

メロドラマとしての悲劇

両親を亡くし、叔父の家に居候している広次と静子は、広次が文学者として自立できるように、懸命に協力しあって毎日を過ごしています。美しい静子を上司の息子に嫁がせることで家の安定をはかる叔父夫婦の計略に対抗するため、西島は広次の作品を同人誌に掲載し、二人を経済的にも支援します。しかし、西島が妻よりも静子を愛し始めたことと、西島から受け取るお金が蔵書を古本屋に売って作ったものだということに気づいた静子はついに、酷い評判の放蕩息子の元へ嫁ぐことをみずから選びます。読者はいつか戦争の問題を忘れ、兄妹の夢と、西島と静子の恋愛が破れるメロドラマとして、物語を読み終えるでしょう。

わかりにくい「その妹」

今回の公演パンフレットには、「その妹」がよくわからないという演出家や俳優たちの言葉がいくつもありますが、実はこのように言われるのは、今に始まったことではありません。たとえば、一九六六年八月〜九月に新人会によって上演された際には、演出家の八田満穂は、「その妹」に「一人よがりな感傷をともなった叫び」や「甘さ」を見いだし、演じることによって、私たちは「その《甘さ》を否定」したいと書いています(『新人会』二五号)。ここに書かれているのは、わかりにくさというよりは理解しがたさですが、兄妹と知り合いだけの狭い世界に閉じ、社会の中での連帯を求めようとしないメロドラマのような悲劇に対して、八田がこのように記すのは間違ってはいないでしょう。しかし、ほんとうに「その妹」は、現代、否定され、乗り越えられるだけの作品なのでしょうか。

エゴイズムの肯定に秘められたもの

実篤作品のわかりにくさはたいていその屈折した思想のせいですが、「その妹」のわかりにくさも、実篤の思想によると思います。「その妹」とは結局、兄が文学者(芸術家)になるという兄妹の夢を実現するために、妹がみずから兄のための犠牲になり、兄は妹の犠牲を受け容れる物語、いわば芸術家のエゴイズム肯定の物語だとわかります(『新人会』の二五号には越智治雄の「エゴイズムの容認」というすぐれた文章が掲載されています)。  若き日にトルストイの影響で社会主義に傾倒した実篤は、その後、自覚的にエゴイズムを思想のうちに取り入れ、エゴイズムとヒューマニズムの調和をはかります。実篤のエゴイズムは独特です。彼のエゴイズムは、自分は殺されるのはいやだという理由で戦争に反対することもあるし、この上なく愛する妹を犠牲にして自分の個性の実現を求めることもあるのです。物語の終盤、最も輝きを放つのは静子ですが、彼女の魅力は、男の広次や西島が一貫して優柔不断な中、みずからを犠牲にする道を選ぶ強さにあります。犠牲という表れとは裏腹に、そこには、戦争・国家・家・お金以上に価値を持つものの実現のためにはみずからの結婚の不幸さえ顧みない、高次のエゴイズムを実現する者の強さがあります。

(二松学舎大学・准教授 瀧田浩)