調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』3号 より2002年9月30日発行

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自伝小説「或る男」

若くして文学の道に踏み入って以来、最晩年に至るまで、実篤が営々として生み続けた詩、小説、戯曲、随筆…。それら作品群は、さながら一大山脈のように私たちの眼前に広がっています。その山なみを展望する時、私たちは、ひときわたくましい山容を誇る一つの峰、自伝小説『或る男』に、思わず心を魅かれることでしょう。

大胆に描かれた自伝

『或る男』は、実篤自身の誕生に筆を起こし、三三歳の時、宮崎県木城村に「新しき村」を開くまでの歩みを、三六歳の夏から二年余りを費やして書き綴った長編です。

主人公が「彼」という三人称で呼ばれていることや、遠い記憶の描写で、ただちに事実とはきめかねる内容も含まれていたりするために、自伝小説とも呼ばれますが、筆者による意識的な虚構は見当たりません。人物は実名で登場し、筆者の知られたくない過ちなども大胆率直に描かれています。その点、まさに"自伝"そのものと呼ばれるべきでしょう。

実篤の幼年期・父の言葉

冒頭には、実篤が生まれ育った家の記憶が描かれます。家計面では苦しい公家華族の家の悲喜劇、夫に先立たれ三人の子を養う母の苦闘。主人公の心に強い印象を刻んだ人や出来事…。それらの中で人間として成長して行く実篤を、私たちは身近に生き生きと感じさせられます。死の床にある父が、「この子(実篤)をよく育ててくれる人があったら、世界に一人という人間になるのだが…」と言った、後にその事を聞き、彼の一生に大きな力を持つ言葉となった。そういうエピソードも記されています。

初恋・親友・文学への道

一五歳になった彼は三つ年下のお貞さんを知り、真剣な恋を経験しました。この、成就することのなかった恋が、彼を文学の道へと導き、やがてトルストイへの傾倒・離反という思想遍歴にも影響を及ぼすこととなります。一人の女性に対する一途な愛の深さには、実篤の資質を考える上で大事なものが暗示されているように思われます。

志賀直哉(学習院中等科六年以降終生の友)との交流を描いた文章は、人間的成長の過程で友人が果たす役割についての示唆に富むものと言えましょう。やがて、近代日本の文学美術の発展に大きな役割を果たした雑誌「白樺」発刊に活躍する青春群像などにも興味深く触れることが出来ます。

盛んな創作活動・多彩な人物交流 そして『新しき村』へ
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実篤は、「或る男」を世に問うまでに、小説「お目出たき人」「世間知らず」「友情」、戯曲「その妹」等、重要な作品を既に発表し、高い世評を得ていました。これらの作品が書かれ、或いは上演された当時の事情やエピソードを知る上で、「或る男」は多くの資料を提供してくれます。

また、二十代から三十代へ、明治から大正へと生きる実篤が出会う人や出来事…。漱石の厚意、ロダンのブロンズ到来、岸田劉生や千家元麿との触れあい、房子との結婚、嫂の死等々…。それらは、いずれも実篤の人間形成の上に影響を与えたものとして読み取ることが出来るでしょう。

「或る男」は、実篤の内部で、新しき村への夢が次第に明確な形を持ちはじめ、同志を募り土地を探し、ついに宮崎県木城村をここと定めて、新たな生活に入るところで終わっています。

『或る男』執筆の真意

「或る男」は、大正一〇年(一九二一)七月から同一二年(一九二三)一一月の間、雑誌「改造」に連載され、一一月二八日付で新潮社から単行本として出版されました。

村の記録である『新しき村五十年』(新しき村刊)によれば、「或る男」を書きはじめた大正一〇年には、"村の住人四〇名。はじめて水稲を作った。自給のためには四町歩の田がほしかったが、八畝しか作れなかった…"、とあり、経済的にも実篤の肩にかかった負担の重さが察せられます。村を支える費用を得るためにも、二年余の間、この作品は書き続けられたのでした。

もとより「或る男」執筆の動機は経済的理由が第一ではなかったでしょう。

執筆当時、実篤は既に作家として一家を成していたとは言え、偏見による酷評を浴びせられることもありました。私生活で、克服しなければならない問題にぶつかってもいました。

そうした中で、実篤は、あくまでも自然の意志に従い、自己をよりよく生かそうと努めました。「或る男」からは、あるがままの自己を大胆に描き出すことで、さらに大きく成長しようとした実篤の息吹きが聞こえて来るように思われます。

(岩井貞雄 専門員)