調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』4号 より2003年3月31日発行

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小説「母と子」

小説『母と子』誕生まで

長編小説『母と子』は、昭和二年二月から八月にかけて、東京と大阪の朝日新聞に連載されました。

「白樺」発刊以来一七年、「新しき村」が発足して一〇年。この間に実篤は、「その妹」「幸福者」「友情」「土地」「人間万歳」などの力作を生み出しています。

大正一四年の末に離村した実篤は、奈良と和歌山に暫時足をとどめ、昭和二年二月帰京、東京府下小岩村(今の江戸川区)に居を定めます。

実篤時に四二歳。唯一人の兄が外交官故に海外生活が多く、自ら老母を護ろうという彼の意志が強まっていました。

帰京と前後して「母と子」の連載は始まり、同年八月に完結しました。同一〇月、改造社から単行本として刊行。以後、度々刊行された中で、昭和二二年、日本週報社版の本作品に添えた序文の冒頭に実篤はこう記しています。

「自分は小説をかく時、いつも母の愛をかきたく思ふ。僕は三つの時父を失なひ、母の手一つで育ったせいか、母の愛を神聖なものとして、いつもその愛を記念したいと思つてゐる。(以下略)」

平山平六と亡友野々村譲

『母と子』にまず登場する四八歳の著作家平山平六は、物語の語り手的存在ですが、主な登場人物の身の上に深く関わって行きます。

彼には、かつて野々村譲という畏敬する作家の友がありましたが、惜しくも二八歳で病死しました。優れた才能を持ち、自然の意志を尊重し、自己の生命の成長のために勇敢に戦う男でした。野々村は、平山平六の心に今なお生き続けています。

息子・下島 進

或る日突然訪ねて来た若者が、二〇年余も昔に死んだ畏友に瓜二つであることに平山平六は驚きました。顔や姿ばかりか、性格も考え方も、その上、文学に生き甲斐を求めようとしている点でも…。

二人で語り合っていながら、平六は進をこのように観察します。

「…彼の一言一句は心の底から出てくるやうに見えた。彼は少しも上すべりした所はなかつた。彼の若々しい顔と、燃えるやうな意力のひらめきは自分には快感を与えないわけにはゆかなかつた。」

まさに、進は激しい情熱を持つ反面、冷徹な知性をも磨きつつある若者でした。

進は、自分を養育することに全霊を注いで来た母を心から愛し、母が話してくれる、一度も見たことのない父を尊敬しています。

母・下島 縫子

野々村譲との間に進という子を得た下島縫子は、今は四五歳、知的で美しい女性です。

野々村には妻子がありました。ひそかな愛に結ばれた縫子が、その結晶である進の誕生を迎えた時、野々村は既に亡き人でした。

実篤は彼女を次のように見ています。

「野々村の価値を本当に知り、本当に愛し、尊敬し、自分の一生を野々村に本当に献げ、又野々村によって本当に生きがいを得、生きる喜びと決心を得た点で縫子は野々村の本当の細君よりは野々村のよき伴りよであるといつてもいゝと思ふ。」

縫子は、野々村の死後も彼への愛を失わず、無名の作家として僅かな収入を得て、進の養育に心を砕いて来ました。

やさしい母と、その翼の下を脱して自らを試したい息子との心の葛藤。帰宅の遅い息子を気遣い、何度も門口に出てみる母…。そうした描写には、実篤自身の母への思いが沁みこんでいます。

作品ににじむ思索の跡

さて、進と縫子を中心にさまざまな人物が活躍します。うら若く美しい綾子。魅力的で行動力のある鶴子。常に進を支える良き友中尾…。若者の微妙な心の変化、清らかな愛の芽生え…。

偶然、進とめぐり逢い、その修行に立ち会う飄々とした和尚。いつかは偉大な彫刻作品を完成させようと夢見る平六の旧友重五郎…。この脱俗的な二人が、若々しい進や綾子たちに入り交じって何かをしたり言ったりする、それが少しも不自然でなく、物語をふくらませているのも面白いことです。

これ以上、物語の梗概を説明することはやめましょう。まずはお読み下さることを念願致します。

実篤が「白樺」の仕事、「新しき村」の活動を通して深めて来た思索、自然の意志、人類の成長、人間の真剣な生き方等々についての考えを渾然たるものとしてまとめ上げたのが、小説「母と子」であると言えるのではないでしょうか。

劉生最後の装幀

岸田劉生が装幀や挿絵を担当した実篤作品は「幸福者」「友情」「人間万歳」など数十冊に及びます。

『母と子』(改造社)も劉生による和紙に木版多色刷りのみごとな装幀でした。

しかし、「母と子」以後に劉生装幀の実篤作品はなく、二年後の昭和四年、三十八歳で劉生は世を去りました。

(岩井貞雄 専門員)