調布市武者小路実篤記念館

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作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』10号 より2006年3月31日発行

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戯曲「或る日の一休」

自由人としての一休

実篤が亡くなったおり、親友のひとり中川一政は、実篤は、画家・詩人・文学者・思想家などの一つの枠に収まりきれない自由に生きた人間、たとえば一休のような人間ではないかと、弔辞で語りました。実篤自身、一休には特別な関心を抱き続け、晩年に至るまで何度も一休を作品にとりあげました。その中で、最も重要な作品は全二幕の戯曲作品「或る日の一休」(一九一三[大正二]年四月の『白樺』に最初に掲載された時の題名は「或日の一休和尚」)でしょう。

あうんの呼吸の会話がうみだす独特の空気
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初演 文藝座
大正7(1918)年11月 帝国劇場

今は「友情」や「愛と死」などの小説、あるいは詩で有名な実篤ですが、本人が最も得意とする文学の形式は実は戯曲(台本形式の作品)でした。彼は、あうんの呼吸で展開する会話の表現に優れていました。冒頭の会話を引用しましょう。 舞台は冬の昼近く、山の小さい庵の囲炉裏端です。

寺男。和尚さん、和尚さん。/一休。なんだ。/寺男。腹がへりましたな。
(略)一休。そんなことを云ふなよ。そんなことを云はれると、どうやら俺も腹がへつて来たやうだ。

取るに足りない内容ですが、この冒頭だけで読者は日常の空気の中にいる一休のリアリティーを感じ取るのではないでしょうか。寺男の空腹につられて、空腹に音をあげる庶民的な一休が、すぐそこにいるような気がしてきます。

戒律を破り続ける一休

二人は二日前から何も食べていません。空腹に耐えかねた一休は、仏教の僧侶という立場にありながら、小鳥を捕る仕掛けを作ったり、葬式を依頼されてのお礼を目当てに人の死を心待ちにしたりしています。そして、ついに土器売りから土器を脅し取ってしまいます。その帰り道で、一休に葬式を依頼する人物に偶然出会い、そこで葬式の依頼主からお礼のお金を前借りし、土器は持ち主に返却することになるのですが、一休は悪びれた様子を見せません。「飢えてする泥棒は賞めていゝ。俺は前から飢えたら泥棒をしてやろうと思つてゐた」「その日ぐらしの土器売のやうなものゝ商売道具さえ飢へたものはぬすんでいゝ」と、寺男にお説教さえするのです。

二幕目では、帰宅した一休のもとを野武士が訪れ、戒律や法を破ってばかりいる一休の行動(野武士は一休の罪として、飲酒・殺生・遊郭通い・追いはぎなどを挙げます)は国を乱す原因になると説き、殺そうとします。しかし、一休は恐れることなく、それぞれの理由を的確に説明してしまいます。野武士はすっかり一休にやりこめられて、一目散に逃げてしまい、作品は終わります。

弱者が見殺しにされる主題

この作品ではあまり目立ちませんが、一休が貧しい土器売りから商売道具を堂々と奪ってしまうところに、弱者をただ傍観したり見殺しにしたりすることを正当化する論理が見られます。当時、こうした内容は実篤作品の重要な主題の一つでした。「或る日の一休」発表から一年以内に、父親が我が子の殺害を強いられる「『嬰児殺戮』中の一小出来事」や、千人の子供が流離王になぶり殺しされるのを傍観することしかできない釈迦を描く「わしも知らない」が書かれています。なぜ、一休・父親・釈迦は、人の道を大きく踏み外すふるまいを許容してしまうのでしょうか。ここには、当時の実篤の生き方をめぐる葛藤が大きく関わっています。

「社会へのため」から「自分を生かすため」への過渡期

実篤は二十歳前後に、キリスト教の思想に基づき世界に向けて社会批判をする思想家トルストイの作品を読み、非常に強い影響を受けました。その影響により、彼は厳しくみずからを律し、社会への献身を義務と考えました。しかし実篤はあまりに強く自分を追いつめてしまった結果、社会のために自分を犠牲にする考え方の息苦しさに耐えきれず、自分の個性を生かすことを第一に考えて生きようとします。だから、作品の中で彼は、弱い立場の人間が傷つく状況下で、あえて傷つける側に身を置こうとします。彼は、弱い立場の人間に背を向ける強者に自分を重ね合わせ、わが道を進む権利を自分自身にあたえようとしていたのです。しかし、勘違いしてはいけないのは、ここに権力者や支配者への野望は生まれていないことです。人並みの自由を手に入れるために、彼はこれほどまで徹底した自己の正当化を必要としたといえるでしょう。一休は実篤が自分らしく生きようと考えた時、模範となった重要な人物の一人です。実篤自身が造形した一休は、その後、実篤に自由に生きる指針を与える重要な存在になったのではないでしょうか。

(瀧田浩 二松学舎大学専任講師)