調布市武者小路実篤記念館

サイトマップ個人情報の取扱

  • 文字の大きさ
  • 小
  • 中
  • 大

作品鑑賞

「作品鑑賞」は、武者小路実篤の著作をわかりやすくご紹介するもので、
過去に館報『美愛眞』に掲載されたものを、再編集し掲載しております。

*日程や名称、執筆者の肩書きは、発行時のものです。

館報『美愛眞』12号 より2007年3月31日発行

image

評論「それからに就て」

白樺派の出発点

実篤が書いた作品の中で「文学史上最も重要な作品は?」と聞かれたら、数ある有名な小説や戯曲よりも、評論の「『それから』に就て」を挙げるのが正解かもしれません。なぜ、それほど重要なのでしょうか。第一の理由は、十三年あまり続いた同人雑誌『白樺』の創刊号(一九一〇年四月)の巻頭に掲げられたのが、「『それから』に就て」であって、『白樺』派が文壇に登場する高らかな宣言の役割をこの文章がになったからです。第二の理由は、実篤たちと夏目漱石との、接点と立場の違いの両面がここにはっきりと書かれているからです。漱石から評価されたこともあって文壇に認められていったにも関わらず、自分たちの個性を信じて漱石の文学とは異なる方向に進んでいった彼らの道すじを、この文章は予告しています。明治時代の終わりに目まぐるしく展開した文壇の動きの一部が、「『それから』に就て」の中に端的に示されているのです。

夏目漱石と武者小路実篤の絆

「それから」は、「『それから』に就て」が発表される前の年に夏目漱石が書いた新聞連載小説で、漱石は実篤ら白樺派の作家たちが最も尊敬する作家でした。世の中の暗い面ばかりに目を向ける、重苦しい雰囲気の自然主義の文学に対して反発を感じていた彼らは、知的で倫理的な作風の漱石を文壇における先輩として尊敬していました。「『それから』に就て」が巻頭に掲載された『白樺』創刊号を漱石に送ると、漱石からすぐにこの文章をほめる返事が来て、実篤は非常に喜びました。このことをきっかけにして、漱石と実篤は著作や手紙をやりとりするようになり、お互いの個性・価値観・世代の差(二人は十八歳年が離れています)を認めあいながらも、信頼し合う関係になりました。

文壇デビュー時の創作方法と人生観

実篤は『白樺』を創刊する前に、志賀直哉らの友人と集まって作品を批評し合ったり、自費出版の単行本『荒野』を世に問うたり、創作について様々な努力と試行錯誤を重ねていました。だから実篤が中心になって『白樺』の創刊を決めたことは、これからどのような文学を書いていくのかについて、実篤の方針が立ったことも意味していました。また、重要なことは、いかに生きるべきかについての方針も立ったようです。『白樺』が創刊される頃実篤の頭の中にあった生き方と創作方法が「『それから』に就て」に書かれています。「『それから』に就て」の中心は、「二、技巧について」、「三、思想について、併せて思想の顕はし方について」ですが、実篤は漱石の「それから」に託して、実は、彼なりの生き方(「思想」)と書き方(「技巧」・「顕はし方」)を主張しているのです。

交差する「自然」

「思想」について語る三章の中で、繰り返し取り上げられているのは「自然」という言葉です。有名な一節を引用しましょう。

(略)自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考を持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ。

自然のままに行動すれば人間の心は喜ぶけれど、社会からはみ出してしまう。社会の決めごとにしたがって行動すれば世の中ではやっていけるけれど、心は空虚感を抱えるようになる。漱石はこの板挟みの中で破滅するまでをリアルに書いたが、これからは自然の方を重視して、調和の道を進んでいってほしい、というのが実篤の主張です。実篤が「『それから』に就て」とほぼ同じ頃に書いた小説「お目出たき人」を読むと、こうした主張がそのまま小説に取り込まれていることがわかります。名前のついていない主人公「自分」は、何度求婚が失敗しても自然が二人を結びつけていることを信じ続けるのです。

実篤の作品を読み解く道標

「技巧」と「顕はし方」に目を転じましょう。「『それから』に就て」では、主人公の主観を強く押し出した小説を書く場合には、その主観が、小説の中の出来事に対して読者が感じる主観の一歩上を行っているか、特殊さを兼ね備えたものであるかしなければ、読者は退屈してしまうと書いています。また、一つの行動に踏み切るまでの過程を、万人が納得できるようにきっちり説明するような書き方をすると、読者はそれをわざとらしく感じて、逆に物語の読者に対する説得力が減ってしまうということを書いています。この主張をまた「お目出たき人」にあてはめて読んでみると、驚くほどよくこの主張が実現されていることがわかります。「お目出たき人」は、主人公のあきれるほどに個性的な主観と、常識的には理解できないような多くの行動に満ちています。「『それから』に就て」は、実篤のすべての作品を読み解くヒントが隠された、非常に貴重な作品です。

(瀧田浩 二松学舎大学講師)